発表50周年を迎えたクイーン「Bohemian Rhapsody」。70年代の楽曲で最多再生回数の記録を持つこの曲を生み出すには、野心と努力、そしてオペラ的要素が必要だった。
フレディ・マーキュリーの証言も交えつつ、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが制作当時を振り返る。

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彼らの現実の人生は、まるで計画通りに、これから幻想の世界へと滑り込もうとしていた。1960年代の終わり頃、ロジャー・テイラーとフレディ・バルサラは床に並んで寝転び、頭どうしをくっつけるようにして『Electric Ladyland』に没入しながら、未来について語り合っていた。ワインを一本分け合うことはあっても、それ以上強いものには手を出さなかった。「フレディと僕は大麻を吸うのが苦手だった」とテイラーは50年以上経った今、そう振り返る。「吸うといつも、後頭部が燃えてるみたいに感じて。どうも合わなかったんだよ」。

バルサラがのちにクイーンとなるバンドに加入し、フレディ・マーキュリーと名乗るようになる前から、彼とテイラーはビロードのように重厚なファッションセンス、ジミ・ヘンドリックスへの情熱、大きな野心を共有していた。「僕らは最高のバンドになりたかった」とテイラーは言う。「ふたりとも本気で成功したいと思っていたんだ」。現在、クイーンのドラマーである彼は、イギリスの田園地帯にある18世紀の屋敷、その広大なリビングルームに座っている。周囲には森が広がる48エーカーの広大な土地。
ここにありつけたのは、これから語る一曲なくしてはありえなかっただろう。クイーンが、それまでのどのバンドよりも大胆に音楽の地平を押し広げ、さらにその先へ踏み出し、〈ガリレオ〉をいくつも並べた名曲中の名曲──「Bohemian Rhapsody」が発表50周年を迎えた。

1975年10月に英国ラジオで初めてオンエアされたこの曲は、同月末に(異例の長尺ながら)無理やり7インチ・シングルとしてリリースされた。それが今では20世紀の楽曲として最も多くストリーミングされた曲のひとつとなり、Spotifyだけで約30億回も再生されている。「信じられないよ」と、翌日訪ねたブライアン・メイは言う。「『Bohemian Rhapsody』って、古びないよね? たぶんそこに僕らの魔法があるんだ。”僕ら”は幸運なことに、年を取らないんだよ」。そう言ってから、彼は少しだけ言葉を訂正する。「”この音楽”は年を取らないんだ」。

数字が示す通り、クイーン最大の曲は、ロック時代でもっとも永続的な遺産になりつつある──(歌詞中の)〈フィガロ〉も〈ベルゼブブ〉もすべてひっくるめて。「Bohemian Rhapsody」は、一曲に何週間もオーバーダビングを重ねる余裕がミュージシャンにまだあった時代、エンジニアが磁気テープをカミソリで切り貼りして編集していた時代、バンドたちが楽曲構造やレコーディング技術の限界を競い合って押し広げていた時代、さらにテイラーが辛辣に言うように「ちゃんと楽器が弾けることが必要条件だった(現代はそうとは思えない)」時代の、短い瞬間の名残として存在している5分54秒の作品である。そして、クイーンが同曲や4作目のアルバム『A Night at the Opera(オペラ座の夜)』の制作に没頭していたその頃、時代はすでに動いていた。
アルバム発売のわずか2週間前、セックス・ピストルズがロンドンで初めてのライブを行ったのだ。

この曲はもちろん、リードボーカルであり作曲者であるフレディ・マーキュリー(1991年、エイズ合併症により45歳で死去)の才能、機知、痛みを永遠に封じ込めた作品でもある。「僕らは、ときに限界までやり込みたくなるんだ」と生前の彼は語っていた。「その気持ちが僕らを突き動かしてるのさ、ダーリン……おそらく僕たちは、世界でも指折りの”細部にうるさいバンド”なんじゃないかな」。

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©️QUEEN PRODUCTIONS LTD

晩春の心地よい朝、テイラーの自宅の脇扉は開け放たれ、広大な庭へと続いている。視界には入らない少し離れた場所には、ミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の宣伝に使われていた高さ20フィート、巨大なガラス繊維製のフレディ・マーキュリー像がある。テイラーは、亡き友人がその新しい居場所を見たら間違いなく大笑いしただろうと確信している。庭の別の一角には、「Bohemian Rhapsody」の最後の数秒でテイラーが叩いたあの60インチのゴングがそのまま置かれている。「レッド・ツェッペリンがゴングを持ってたのを覚えてたんだ」テイラーはニヤリと笑って言う。「だから僕らは、もっとずっとデカいゴングを使った。まあ、情けないほどのマウントの取り合いだよね」。

かつて金髪だった彼の髪も今では銀色に変わり、短く刈り込まれ、同じ色のヒゲをたくわえている。
今の彼は、スリムなカーキパンツにグレーのボタンダウンという、引退した大物のような装いだ。近くにはグランドピアノが置かれ、上には走り書きされた作曲途中のコード進行が載った紙がある。背後の棚には、ザ・ビートルズボブ・ディランに関する本が並んでいる。

奇跡のハーモニーが生まれるまで

1969年、テイラーはスマイルというバンドでドラムを叩いていた。そこにはメイもいて、彼もフレディ同様ジミ・ヘンドリックスを崇拝する、天才的で几帳面で、巻き髪の青年だった。一方、バルサラは短命に終わったバンド・Ibexで歌っていた。二つのバンドのメンバーたちはロンドンのフラットに身を寄せ合うように暮らし、その間ずっと、バルサラはスマイルに入り込もうとしていた。しかし、当時の彼は決して「すんなり迎えられる選択肢」ではなかった。「正直に言うと」テイラーは話す。「あの頃の彼は、決して優れたシンガーじゃなかった。すごく力強いけれど、制御できないノイズみたいな感じだったから」。

フレディは、寝室の鏡にヘンドリックスの写真を貼り、彼のフリルのついたステージ衣装のイラストまで描き、少なくとも14回はコンサートに足を運んだ。
ヘンドリックスは「僕がなりたかったものを全部体現していた」と彼はのちに語っている。ただし、ジミがロック・スターダムの”白人中心”という常識を打ち破る存在でもあったこと──後年のフレディもそうであったように──には触れなかった。バルサラは、ヘンドリックスのように自己変革し、ぎこちなくて内気で、出っ歯だった自分の過去を消し去りたいと必死だった。彼は自分の非常に特殊なバックグラウンドについてほとんど語らなかった。すなわち、英国植民地であるザンジバルで比較的裕福な家庭に生まれ、ゾロアスター教を信仰するパールシーの両親のもとで育ったこと(古代宗教の多くがそうであるように、クィアネスに寛容ではなかった)。8歳から16歳まではインドの名門寄宿学校に通い、1964年、ザンジバルで革命が起こり英国支配が崩れたため、家族とともに英国へ逃れた。

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リッジ・ファームにて、バンド一同に寄り添う犬(© QUEEN PRODUCTIONS LTD./HOLLYWOOD RECORDS)

70年代が始まる頃、スマイルのシンガーだったティム・スタッフェルが脱退し、フレディが正式にバンドへ加入、バンド名をクイーンへと改名した。これはテイラーとメイにとって当初は据わりの悪い決断だった。「王族のイメージで」とマーキュリーは主張したが、その理由づけはどうにも説得力に欠けていた。今となってみれば彼のセクシュアリティは明白に思えるが、初期の頃は必ずしもそうではなかった──本人にとっても同様かもしれない。マーキュリーは1970年にメアリー・オースティンと出会い、長年にわたる恋人となった。彼女が初めての交際相手というわけでもなく、少なくともバンドメンバーはそれ以前にも女性と付き合う彼を見ていた。
メイによれば、せいぜい「ちょっとした疑い」があった程度だったという。

その夏までに、フレディは新しい姓を見つけた。クイーンのデビュー・アルバム(『戦慄の王女』)に収録された「My Fairy King」の中にある〈Mother Mercury〉という一節に触発されたものだった。「フレディは自分自身を作り上げたんだ」とテイラーは言う。「彼はゼロに近い状態から、フレディ・マーキュリーという人物像を作り上げていった」。

「Bohemian Rhapsody」で結実した、あの驚くほど精妙なボーカルの融合は、イングランド沿岸のよく響く洞窟で生まれたものだ。テイラーの故郷コーンウォールを頻繁に訪れていた頃のこと。ティム・スタッフェルの脱退前から、メイ、マーキュリー、テイラーはその場所で三声のハーモニーを歌い始めていた。「僕たちは洞窟に入って、いろんな曲をただ歌っていたんだ」とメイは語る。「その響きに浸りきっていたよ。美しいハーモニーが完璧に溶け合う感じにね。特にフレディと僕は、その情熱を共有していたと思う」。


クイーンの最終的なラインナップが固まるのは翌年、ベーシストのジョン・ディーコンが加入してからだが、彼らはすでに自分たちが目指す音楽の方向性をつかんでいた。「クイーンのビジョンはね」とメイは言う。「バックの演奏には重厚さや力強さ、エキサイティングな構造があって、その上に美しいメロディとハーモニーが重なるんだ。すべてがそこにある──というのを追求していた」。メイがプログレッシヴ・ロックの巨星、イエスの活動初期のライブを観たとき、彼らのねじれたリフと、クロスビー・スティルス&ナッシュ風のハーモニーの融合に「ああ、この感じは求めてるものと近い」と感じたという。

1969年12月、メイ、マーキュリー、テイラーは、ロンドン・コロシアムでザ・フーが新作『Tommy』を演奏するのを観に行った。それは彼らの未来地図を形づくるもうひとつの重要なピースだった。オペラ的ロックそのものではないにせよ、壮大で爆発力のあるロック・オペラであることは間違いなかった。テイラーはいまでも、スタジオ版の『Tommy』はプロデュースが控えめで、ステージでの演奏に比べて物足りなく聞こえると感じている──少なくとも、クイーンには決して当てはまらなかった批判だ(メイの捉え方は少し異なり、「僕らの成長課程では、『Tommy』に影響を受けるのは時期的に少し遅すぎたんだよ」と語っている)。

その年に発表されたもうひとつの楽曲、ザ・ビートルズの「Because」におけるこの世のものとは思えない声の重なりにも、メイとテイラーは強い衝撃を受けた。「釘づけになったよ」とメイは言う。「背筋がゾクゾクしたのを覚えている。これまで聴いたどんな曲よりも大胆でピュアなハーモニーだと思った」。コーラスのような効果を生み出すため、ビートルズは複数のレイヤーで自分たちの声を重ねていた。メイ、テイラー、マーキュリーの3人は、まもなくこの手法をさらに極端な領域へと押し広げることになる。「ビートルズがやってきたことのすべてに影響を受けている」とメイは語る。「僕たちはビートルズが歩みを止めた地点から、その続きを受け継ぐことができたんだ」。

歌詞を巡る推測

50年の歳月が経った今でも、メイとテイラーは「Bohemian Rhapsody」でマーキュリーが何を歌っていたのか正確には掴めていない。「残念だけど、フレディに訊くことはできないからね」とテイラーは言う。クイーンのメンバー間で歌詞の意味について話し合うことはなく、マーキュリー自身も解釈を明かすことに積極的ではなかった。彼は後年こう語っている。「いまだに『Bohemian Rhapsody』が何について歌っているのか聞かれるけど、僕自身わからないって答えてるんだ」。何かを明かしてしまえば、「神話性が失われて、人々が積み上げてきた神秘が壊れてしまう」とも述べている。楽曲を初オンエアしたDJであり親友のケニー・エヴェレットによれば、マーキュリーは個人的な場ではこの曲のことを「韻を踏んだナンセンスさ」と一蹴していたという。

1975年半ば、クイーンが『A Night at the Opera』の制作に入る直前にマネージャーとなったジョン・リードはゲイで、当時はもう一人のクライアントであるエルトン・ジョンと交際していた。ある晩の食事で自身のセクシュアリティに触れたところ、マーキュリーも自然にカミングアウトした。その頃マーキュリーはまだメアリー・オースティンと同居していたが、夜はゲイクラブ「Rods」に通い、そこでデヴィッド・ミンズという若い男性と出会い、関係が始まった。リードは「Bohemian Rhapsody」が根本的に、マーキュリーが自身の性的アイデンティティと向き合う物語であるという有名な説が正しいと確信している。〈すべてに背を向けて、真実と向き合うんだ〉という一節などは、まさにその読みを求めているように見える。「そこが鍵なんだと思う」とリードは言う。「少しの自己不信、それと彼が両親に対して決して完全にオープンになれなかった、という事実も含めてね」。

ミンズがかつて綴っているように、マーキュリーは「自分の過去に対して、何らかの罪悪感に苛まれていた」。その感情は「Bohemian Rhapsody」の核心を形づくっているように思える。曲中の多くで〈ママ〉に語りかける形を取っていることも象徴的だ。冒頭の〈人を撃ち殺した男〉を、マーキュリーが”ストレートを装っていた自分との別れ”を象徴する存在と解釈したくなるのはもっともだ──たとえ、その歌詞を書き始めたのが60年代後半だったとしても。「彼はその生き方に終止符を打とうとしていたんだ」とリードは言う(補足すると、マーキュリーは自身を”ゲイ”ではなく”バイセクシュアル”と称することもあった。近年出版された一部の書籍では、1976年前後に隠し子がいたと主張されており、彼のそうした自己認識を裏付けるようにも受け取れる。しかし、リードはその説をまったく信じていない。彼はこう語る。「そんなの、完全にでたらめだ。フレディの身の回りで彼が何をしていたのか知っている人間は大勢いたんだ。そんなことを隠せるはずがない」。テイラーとメイは、この書籍の内容についてコメントを控えている)。

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1975年7月、リッジファームでのティータイム(Photo by Watal Asanuma/Shinko Music/Getty Images)

テイラーにとって、「Bohemian Rhapsody」を巡る推測のほとんどは”深読みしすぎ”にすぎない。「彼は強度のある、考え抜かれた曲を書いていた」とテイラーは言う。「そして僕たちは、その真ん中に驚くほどバカげたパートを入れ込んだのさ。だからみんな『何か隠された意味があるんじゃないか?』 と気にしている。でも、そんなものはないんじゃないかな。表に見えているものがすべてで、あとはルイス・キャロル的なナンセンスだよ。〈ベルゼブブは僕のための秘蔵の悪魔を持っているんだ〉という一節とかね。単にイメージとして魅力的なだけで、それ以上でも以下でもないと思う」(マーキュリー自身もかつてこう語っている。「別に悪魔学を研究しているわけじゃないよ。ただベルゼブブという言葉が大好きなんだ! いい響きだろ?」)。

一方で、亡き友人について現在形で語る癖があるメイは、そこまで断言できない。「彼は、心の中で美しいものを創造しているんだ」とメイは言う。「そして、心の中にあるものをすべて注ぎ込んでいるんだ。痛みも、フラストレーションも、混乱も。それは字義通りではないし、意識的でもない。『My Fairy King』を聴けば、同じく彼の内面で描かれていたファンタジーが歌われているとわかるんじゃないかな?」(その曲でマーキュリーはこう歌っている。〈誰かが僕の妖精のリングを壊し、誇り高き王を辱めた/僕は走れない/隠れることもできない〉)。「あの曲も同じように曖昧だ。フレディは、自分を説明したり、直接的に語る必要を感じていない。ただあの音節を発したときの声の響きが気に入っているだけなんだ。それらすべてが創造の喜びの中でごちゃ混ぜになっている。僕は、フレディがそういう人だったと思っている」。

曲の中央パートでは明らかに、何らかの戦いが繰り広げられている。主人公の肉体と魂が危機に瀕し、”怪物”が迫り来る──しかし、その深刻さは、マーキュリーの遊び心あふれるボーカルや、愉快で遊び心あふれるオペラ調のパートによって、良い意味で台なしにされている。最近オークションに出品された、航空会社の便箋に鉛筆書きされた手稿を見ると、〈scaramouche〉〈Figaro〉〈Galileo〉〈magnifico〉〈fandango〉などの語は、イタリア語風またはオペラに関連する言葉を次々と書き出すブレインストーミングの結果であり、意味よりも響きや韻に重きが置かれていたことがうかがえる。他にもマーキュリーは〈belladonna〉〈castanetta〉〈barcaraola〉(おそらく〈barcarolle〉のつもり)などの単語を書き込んでいた。もし、あの戯画的なカウンターポイントがなかったら、その直前に覗き見える深淵のような一節〈生まれて来なきゃ良かったのに、いっそのこと〉──意外にも多くのリスナーが聞き流してしまう部分──は、もっと重く響いていたかもしれない。

クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」発表50周年 当事者たちが明かす歴史的名曲の誕生秘話

フレディ・マーキュリー(Photo by Watal Asanuma/Shinko Music/Getty Images)

マーキュリーは、この曲のためにオペラを多少リサーチしたとは認めているが、その詳細を語ることはなかった。「『Bohemian Rhapsody』みたいな曲は、何もないところから突然生まれるわけじゃない」と彼は言っている。子どもの頃からのピアノレッスンでクラシック音楽の基礎知識はあり、曲名自体もその世界への目配せになっている。オークションに出品された歌詞草稿には、マーキュリーが当初、冗談めかして「Mongolian Rhapsody」というタイトルを考え、のちにそれを消した痕跡が残っている──明らかにフランツ・リスト「ハンガリー狂詩曲」(Hungarian Rhapsodies)のもじりだろう(1946年の名作短編アニメ『ラビット狂騒曲』で、タキシード姿のバッグス・バニーが「ハンガリー狂詩曲第2番」を弾くシーンでも、モーツァルトのオペラの登場人物”フィガロ”が引用される)。

マーキュリーは、自分たちの企てがどれほど独自のものかをよく理解していた。「オペラ・パートをちゃんと聴けば、比較できるものなんてないってわかるだろう。それが僕たちの狙いなんだ」と彼は言う。「でも、奇抜さを狙っていたわけじゃない──ただ、それが僕たちの性分なんだよ」。ときに、曲はコメディに振り切り── magnifico!(壮麗!)──1971年の「Stairway to Heaven」(レッド・ツェッペリン)のような”生け垣のざわめき”を厳粛に扱う作品にはない、過剰さを自覚したユーモアが盛り込まれている。「自分たちのやってることに対し、そういったユーモアのセンスを交えるのは健全だと思うよ」とメイは語る。「だからといって、真剣さが損なわれているわけじゃない」。

「僕らとしては『まあ、これはちょっとバカげてるけど、やっちゃおう』って思ったんだ」とテイラーは続ける。「あのふざけた感じを、僕らは楽しんでいたんだよ」。

ブライアン・メイの葛藤

ブライアン・メイの頭の中には傑作があったが、それをどうしても形にできなかった。1975年半ば、彼は複雑な構造を持ち、奇妙なボーカル効果や爆発的なピークを備えた、長尺でプログレ風の楽曲を書き始めていた。ただし、それは「Bohemian Rhapsody」のことではない。『A Night at the Opera』制作初期、クイーンはロンドン郊外のリッジ・ファームへ移り、曲作りに専念することにした。彼らは1974年に大ヒット曲「Killer Queen」を放ったにもかかわらず、管理契約によって貧困と借金に追い込まれていた。

「僕らはひどく貧乏だった」とメイは言う。「何も持っていなかった。周りからは金持ちだと思われていたけどね」。メイの記憶では、当時のマネージャーだったノーマン・シェフィールド(故人)はテイラーのドラムスティック購入にまで文句をつけ、マーキュリーのための新しいピアノを買うことも拒んだという。しかし新マネージャーのジョン・リードは、EMIレコードを説得して十分な前金を引き出し、バンドが初めて”制限なし”で創作できる環境を整えた。彼はバンドに「音楽に集中してくれ、古い契約の処理は自分が引き受ける」と告げた。シェフィールドは自伝の中で、いずれにせよバンドは大きな支払いを受け取る予定だったが、マーキュリーが焦っていたため袂を分かったのだと主張している。しかしマーキュリーは『A Night at the Opera』収録の「Death on Two Legs」で彼を徹底的に攻撃し、〈おまえはヒルみたいに俺の血を吸う〉と曲中で吠えたため、シェフィールドは名誉毀損で訴訟を起こし、すぐに和解した。

農場で、メイは自作曲「The Prophets Song」で抱えていた野心と格闘し続けていた。この曲は、黙示録的な夢に基づく”地上の人々”への警告で、「Bohemian Rhapsody」よりも2分長い。彼は潰瘍から回復する中で創作が停滞しており、その一方でバンドの別メンバーが順調に進んでいることは、決して励みにはならなかった。クイーンは、メンバー全員がヒット曲を作曲した稀有なバンドだが、その道のりに摩擦がなかったわけではない。「僕らはもちろん、かなり競争心が強かった」とメイは静かに語る。「フレディが『Bohemian Rhapsody』を叩きつけるように作曲している音が聞こえてきてね。僕たちは各自、別々の部屋で曲を書いていたんだけど、彼はどこか屋外の庭に置いたピアノでガンガン弾いていて、それがどんどん複雑になり、さらに熱量と切迫感が高まっていく。それを聞きながら、僕は『ああぁぁ……』と思っていた。自分には『The Prophets Song』のビジョンがあるのに、どうしても形にできない。あれは僕にとって苦しい時期だった」。

メイは今、テイラーの家からそう遠くない自分の田園邸宅にある、車庫のようなキャリッジハウスの中にいる。彼が腰掛けているのは、録音前、恋人と暮らしていたアパートよりも「広いはずだ」と本人が断言する、小さな部屋のシンプルな木のテーブル。壁には天文学をテーマにした写真のほか、自作「We Will Rock You」や、クイーン『Greatest Hits』のセールス功績を記念したプレートが掛けられている。彼の髪は今では灰色だが、相変わらずのカーリーヘアで、この日は朝のスイミング後で濡れたままだ。「身体的にちょっとした問題を抱えていたものでね」と彼は言う。これは昨年8月に起きた脳卒中のことを控えめに示した発言で、その際はギター演奏が一時的に困難になったという。「でも、運動すると本当に体の具合が違うんだ」。

メイのジャケットには、NASAの宇宙探査機「ニューホライズンズ」が2015年に冥王星を接近通過した際の記念バッジがついている──驚くべきことに、メイ自身がそのミッションのデータ解析に携わっていた。彼は2007年、家族の反対を押し切ってクイーンのために中断していた天体物理学の博士課程を、数十年越しに修了した。「父は『お前は人生を台無しにしようとしている』と言ったんだ」とメイは語る。1975年の時点でも父はまだそう考えており、それが『A Night at the Opera』制作時の「これは成否を分ける作品だ」というバンド全体の緊張感をさらに高めていた、とテイラーは言う。

筆者が「The Prophets Song」への好意を口にすると、メイはパッと表情を明るくする。公平に言えば、この曲には常に熱心なファンが存在し、マーキュリーもかつてシングル候補として挙げていたほどだ。当時、本誌はクイーンと複雑な関係にあった──1979年には、才気あふれる批評家デイヴ・マーシュが彼らを「史上初の真にファシスト的なロックバンド」と呼び、いま振り返れば「We Will Rock You」への不可解な過剰反応としか思えないレビューを残している。しかし『A Night at the Opera』のレビュー自体は好意的だった。ただし奇妙なことに、そのレビューは「Bohemian Rhapsody」について一言も触れず、代わりに「The Prophets Song」をアルバム最高の曲として挙げていた。「この曲はいわば、もうひとつの隠れた宇宙なんだよ」とメイは言う。「すぐ側にあの”巨獣”がいたせいで、これまでたいした注目を浴びてこなかったんだ」。

クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」発表50周年 当事者たちが明かす歴史的名曲の誕生秘話

ブライアン・メイが愛器レッド・スペシャルを演奏(Photo by Watal Asanuma/Shinko Music/Getty Images)

メイは「Bohemian Rhapsody」が生まれていく気配を聞きながら、自分の曲よりもついフレディの曲に気持ちを奪われていった。ギターのオーケストレーションやソロのアイデアが頭の中で沸き立ち始める。「『Bohemian Rhapsody』のあらゆるインスト部分のアイデアは、フレディが曲を育てていくのを聞きながら生まれていったものなんだ」とメイは語る。「フレディは驚くほど横方向に発想するタイプでね。だから僕は、自分の曲よりも彼の曲で演奏するほうがずっと簡単だった。刺激がどんどん入ってくるからさ」。

オペラ・パートの後に続く曲調のねじれた重厚なリフ──1992年の映画『ウェインズ・ワールド』でマイク・マイヤーズとダナ・カーヴィが頭を振って熱狂したことで、曲に”二度目の人生”を与えた有名なパート──は、マーキュリー自身が考案したものだ。しかし、そのリフはメイの指にはずっとしっくりこなかった。「『Bohemian Rhapsody』って、何年経っても簡単に弾ける曲じゃないんだ」と彼は言う。「今でもちゃんと気を張っていないと、すぐに列車から振り落とされることになるんだよ」。

永遠に終わらないように思えた制作

クイーンは次に、ウェールズの農場にあるロックフィールド・スタジオへ向かい、レコーディングを開始した。基本となるトラック──ドラム、ベース、ピアノ──はすぐに仕上がった。マーキュリーはオペラ部分のメロディをピアノパートに織り込み、彼の打楽器的なピアノ演奏が全体の推進力を生み出していた。「奇抜な衣装とか、派手なショーマンシップは忘れていい」とテイラーは言う。「彼は何よりまず、卓越したミュージシャンだった。その事実は、あの破天荒なフロントマンのイメージに完全に隠されてしまっているけどね」。

そこからバンドはロンドンの複数のスタジオを行き来しながら作業を進めた。このやり方が『A Night at the Opera』の”史上最も制作費がかかったアルバム”という神話を生む一因になった。しかし、事情をよく知るマネージャーのジョン・リードは、それをナンセンスだと言い切る。「無駄なんてなかった」とリードは言う。「彼らは浪費するようなミュージシャンじゃない……ストーンズのほうがよっぽど注ぎ込んでいたはずだよ」。

幸運なことに、当時のスタジオは、オーバーダビングの回数では料金を取らなかった。「僕たち3人で、160~200人規模の合唱団のような効果を再現したんだ」とマーキュリーは語っている。彼は信じがたいことに、アレンジ全体をすべて頭の中で把握しており、多くてもハーモニーの一部をメモする程度だった。オペラ・パートだけで3週間、週末も含めてぶっ通しで、バンドと今年亡くなったプロデューサーのロイ・トーマス・ベイカー、エンジニアのマイク・ストーン(故人)が一緒に作業を進めた。セッションのアシスタント・エンジニア、ゲイリー・ランガンはこう語る。「特定のフレーズが特定のタイミングでしか歌われず、現れては消えていく──その全体像を頭に入れておくなんて、僕には理解できなかった」。

「永遠に終わらないように思えた」とテイラーは振り返る。「僕たちのやり方は、3人全員が全部のパートを歌うというものだったから、すごく厚みのある、身体性のあるサウンドになったんだ」。例外は、2018年の映画『ボヘミアン・ラプソディ』でも描かれた、あの最高音の〈Galileo〉。あれはテイラーにしか出せなかった。そして作業は、ついにテイラーを追い詰めた。彼は癇癪を起こし、その怒りっぷりは映画で描かれたものよりもはるかに激しかったとランガンは証言している。「彼は本気でキレてたね」とランガンは言う。「怒り狂っていた。映画で描かれているより数段階は上だったね」。

クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」発表50周年 当事者たちが明かす歴史的名曲の誕生秘話

『A Night at the Opera』のためにハーモニーを録音するメイ、テイラー、マーキュリー(Photo by Watal Asanuma/Shinko Music/Getty Images)

ほかに緊張が生まれたとすれば、シングル曲としては”長すぎる”という一点だけだった。「フレディは当然のように『6分でいく』という姿勢を崩さなかった」とランガンは言う。「でも、バンドの一部は『フレッド、さすがにやりすぎだと思う』という空気だったね」。テイラーの記憶では、ジョン・ディーコンが編集を試みたこともあったが、当然ほかのメンバーの反応は芳しくなかった。

バンドはレコード会社の反応を心配していたが、映画で描かれたマイク・マイヤーズ演じる”鼻持ちならない重役”との対立シーンとは異なり、当時マネージャーだったリードは「そんな衝突はなかった」と断言する。「プロモーターのうち2、3人は『長すぎると思う』と言っていたけど、最終的には僕らの言うとおりに物事は進んだ」と彼は言う。実際、最も強く反対したのは、なんとエルトン・ジョンだった。リードはこう振り返る。「彼は『お前ら正気か?』と言ったんだ。『ヒットするわけない。長すぎる!』って。とにかく断固反対だったよ」。

バンドが最後に生み出した革新は、この曲のためにミュージックビデオを制作したことだった。1975年当時としては極めて珍しい試みだ(数年後、『ウェインズ・ワールド』版に再編集された映像によって、この曲はアメリカで再び大ヒットすることになる)。撮影に費やされたのは、わずか4時間。場所はエルストリー・スタジオで、翌年には『スター・ウォーズ』の多くのシーンがここで撮影されている。テイラーは、またしてもあまり楽しめなかった。「裸にされて、ベビーオイルを塗られたんだ」と彼は言う。「それも深夜1時半とかにね」。

メイは、この曲で重ねられた数多くのギターパートをすべて、ティーンの頃に父とともに手作りした愛器「レッド・スペシャル」で録音した。古い暖炉の木材から作られたギターだ。取材での会話のあと、彼が自宅スタジオを案内してくれた時に、筆者はそのギターの所在を尋ねた。「おお、見たい?」と彼は言い、スタッフに取りに行かせた。数分後、ギターが運ばれてくると、メイはいくつかサスティンの効いたコードを弾き、ザ・フーのピート・タウンゼントの影響について語り始めた。「こいつは昔からの相棒なんだ」と彼が言った後、筆者の手にそれを渡した。重厚な木材と歴史の重みを感じながら、恐る恐る「Bohemian Rhapsody」のソロの最初の数音を弾くと、まさにメイが押さえた位置に自分の指が置かれているのを感じた。メイは眉を上げ、笑った。「おお、いいね。いけるかもしれない!」。

クイーンが思い描く将来のビジョン

2011年以降、クイーンはアダム・ランバートを迎えて何度もワールドツアーを行ってきた。ここからの話はファンにとって朗報だ。「まだ終わりじゃないと思う」とテイラーは言う。「それに、”ファイナル・フェアウェル・ツアー”みたいなことも言わないと思うよ。だって、そう言っても本当に最後になることなんてないだろ?」。彼らはランバートを迎えたクイーン名義の新曲をまだリリースしていないが、その可能性は「いつも頭の片隅にある」とメイは言う。「あまり知られていないけれど、アダムと僕たちはスタジオでいろいろ試してきた。ただ、まだ形になっていない。実るものもあれば、そうでないものもあるんだ」。

メイは長年のツアー生活に疲れてはいるが、それでも演奏は続けたいと考えている。「50年もツアーをしてきたから、もう十分だろうと思う自分もいる」と彼は言う。「ホテルの部屋で目覚めて、そこに閉じ込められている感じがしんどくてね。最近、家族に関わる出来事が起きても、自分は帰ることができなかった。それがどうにも引っかかって、『もうこの生活を望んでいないのかもしれない』と思った。自由をあまりに何度も手放してきた気がする。だから今のところ、ツアーはしたくない。でもステージには立ちたいし、新しいことにも挑戦したい」。

そこでメイが考えているのが、ラスベガスの革新的施設・Sphereでのクイーンのレジデンシー公演だ。古くからのロック仲間がそこで公演を行なうのを観て、360度スクリーンなどの最新技術に圧倒され、強烈なインスピレーションを受けたという。「Sphereには大いに興味がある」とメイは語る。「あそこに座ってイーグルスを観ながら、『僕らもこれをやるべきだ。クイーンがこの会場に立てば、とんでもないものになる』と思ったよ。だから、やりたい。いま話を進めているところなんだ」。

その話し合いに、いまだ加わっていないのがジョン・ディーコンだ。クイーンの中で最も寡黙なメンバーだった彼は、マーキュリーの死後、完全に第一線を退いた。何十年もインタビューに応じておらず、メンバーたちとも社交的な場を含め一切連絡を取っていない。「ロジャーも僕も、正直そのことを受け入れるのは辛い」とメイは言う。「でも彼が望まない以上、尊重しなければならない。彼は離れていたいんだ。とはいえ、バンドの運命の一部であることに変わりはない。ビジネス上の決断が必要な時には必ず相談するし、それはマネージメントや会計士を通して行われている。僕ら自身とは話さない。そこは残念だけど、彼が僕らを支持してくれているのはわかっている。それが大事なんだ」。

マーキュリーは、ある意味、今も彼らの生活の中に存在しているようだ。「ブライアンと僕は『あいつ、部屋の隅にいるよな』ってよく感じるんだ」とテイラーは言う。「彼なら何と言い、どう考えるか、僕たちは手に取るようにわかるから。彼を失ってから、あんなに長い年月が経ったというのにね」。メイにとっても同様で、今もマーキュリーが夢に現れるという。「いたって普通なんだ」とメイは言う。「彼が出てきても驚かないし、『そこにいるはずがない』なんて思わない。まるで今も、昔と同じように僕の人生の一部なんだよ。」

マーキュリーは時に、〈何がどうなろうと、大したことじゃない〉という歌詞をなぞるように、自分の音楽を軽く扱うふりをしていた。「どれも長く残り続ける価値なんてない」と言い、「Bohemian Rhapsody」でさえも同じように言い放った。「『僕のアートなんてフィッシュ&チップスの包み紙みたいなものさ』ってよく言ってたよ」とメイは語る。「『使い捨てなんだ』ってね。でも、本心ではそんなふうに思ってなかった。絶対にそのはず」。メイは友を思いながら、深くため息をつき、その言葉をもう一度繰り返す。「そんなはずないんだ」。

クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」発表50周年 当事者たちが明かす歴史的名曲の誕生秘話

クイーン、1975年7月のリッジ・ファームにて(Photo by Watal Asanuma/Shinko Music/Getty Images)

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クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」発表50周年 当事者たちが明かす歴史的名曲の誕生秘話

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