1839年7月7日(道光19年5月27日)、広東省九龍(カオルン)の尖沙咀(チムサーチョイ)で、中国人が英国人水夫に殴打される事件が発生した。

 同年初め、アヘン撲滅という勅命を帯びて広州に派遣された欽差大臣の林則徐は、英国商人らに対し、「今後アヘンを清国に持ち込まない」という誓約書の提出と、アヘンのストックの引き渡しを求めた。
当時、広州は清国で唯一の通商開放港だった。

 英国の駐清商務監督チャールズ・エリオットは当初、林則徐の要求を突っぱねたものの、林則徐が商館の包囲も辞さない強硬な姿勢を見せると、仕方なくアヘン没収には応じた。しかし誓約書については英国商人にサインを禁じ、全員を引き連れて広州から退去、マカオへ移った。

 これに伴って多くの英国商船がマカオに移動。乗組員たちはしばしば香港島や九龍半島に上陸し、地元住民との間で揉め事を起こした。7月7日、林喜維という村民が酔っ払った英国人水夫に棍棒で殴打され、翌日死亡した。

 事件発生後、林則徐はマカオにいたエリオットに対して犯人の引渡しを求めたが、エリオットは犯人は不明という口実で要求を拒否した。これにより林則徐と英国側の摩擦は一層大きくなり、翌年のアヘン戦争開戦へと向かっていった。(編集担当:梅本可奈子)

【関連記事・情報】
【今日は何の日】1927年:上海市が設立される(2007/07/07)
社会>コラム>今日は何の日 - サーチナトピックス
編集部おすすめ