1923年7月16日昼、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)は、紫禁城(皇宮)内の宦官の解雇を命令した。

 1911年の辛亥革命によって清朝は滅亡。
幼帝・溥儀は翌12年に退位したが、袁世凱との合意のもと「大清皇帝」の尊号を与えられ、引き続き大勢の宦官を抱えて紫禁城の内廷で暮らすことを許された。

 1917年、「張勲の復辟(ふくへき)」によって再び皇帝となるが、清朝再興はわずか10日余りで失敗に終わる。その後、溥儀はスコットランド人のレジナルド・ジョンストンを家庭教師に迎え、英語をはじめとする西洋式の教育を受けた。

 1923年、紫禁城内の近代化に取り組んだ溥儀は、美術品の横領や汚職をなくすため、約1000人いた宦官の解雇を決意。7月16日、「太監(宦官の通称)を全て解雇する。全員直ちに宮中から出ていくように」との命令を発した。溥儀は最初、全ての宦官を追放するつもりだったが、太妃らの願いを聞き入れ、太妃3人、溥儀、淑妃の宮殿にそれぞれ20人の宦官を残し、残りを全員解雇することにした。

 当日夕方、一堂に集められた宦官たちに解雇が告げられると、あるものは号泣し、あるものは憤慨して罵りの言葉を発した。宦官の多くは河北など地方の出身のため、内務府から解雇帰郷手当てが支払われることになり、北京に身を寄せる場所がある者は即刻荷物をまとめて宮殿から退去、それ以外の者は当面、地安門内大街の雁翅楼に住み、7月下旬に解雇手当てを受け取ってから各自帰郷することとなった。(編集担当:梅本可奈子)

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