日本語と中国語(111)-上野惠司(日本中国語検定協会理事長)

 まだ少し先だが、10月1日が私の誕生日である。言うまでもなくこの日は中国の国慶節であるから、生まれながらにして中国とは縁があったのかなと思ったりもする。


 年齢を聞かれて、誕生日がくると69歳だと答えると、「来年は古稀ですね」と言われることがある。「今時珍しくもありませんね」などと受け流しているが、この使い方はおかしい。

 「古稀」という語は、よく知られているとおり、唐の杜甫の詩に出てくる「人生七十古来稀」という句に基づいている。杜甫の時代、70歳まで長生きする人はまれであったのであろう。杜甫がはじめて言ったことばか、それとも古くからあることわざのようなものを詩句に用いたのかはよくわからない。

 いずれにしても、杜甫の時代は今日のように「周歳」(満年齢)で年を数える習慣はなく、「虚歳」(数え年)で数えたから、昭和14年生まれの私は今年の正月にすでに数えの70歳に達していて、今年が「古稀」というわけである。

 余談ながら私流には今年は昭和83年である。「平成」を認めないわけではないが、昭和14年生まれが今年何歳であるかは、昭和83年なら直ちに計算できるが、平成20年ではそうはいかない。わが家の流儀かどうかは知らないが、明治生まれの父は生涯「明治」を用いていたし、大正生まれの母はずっと「大正」で通していた。

 ついでに記しておくと、『論語』の孔子のことばに基づく「而立」(30歳)や「不感」(40歳)などの語も、数え年によるのが本来である。「還暦」も61年目に同じ干支がめぐってくることをいうのであるから、やはり数え年の61歳をいうのであって、満60歳の誕生日を祝うものではない。

 別に引用して「倚老売老」(年寄り風を吹かす)しようという魂胆はないが、中国語には老人の知恵や経験を尊重したことわざや慣用表現が多く見られる。
よく知られているのは、「姜是老的辣」だろうか。ショウガはひねたのが辛い。亀の甲より年の功。同じことを言ったものだが、「嫩姜没有老姜辣」というのもある。若いショウガはひねたのほど辛くはない。

 「老馬識途」も同じ。老いた馬は道をよく知っている。経験を積んだ者の知恵の貴重であることを言ったもの。『韓非子』に出てくる故事に基づく語。斉の桓公が戦の帰りに道に迷った時、管仲の進言で老馬を放ち、その道案内で帰ることができたという。この語はまた、老人や熟練者が若者や未熟者の指導を買って出る場合の謙遜のことばとしてもよく使われる。

 「老魚不上鈎」。
年を取った魚は鈎(はり)にかからない。経験に富んだ者は甘いことばに引っかからない。自信が高じてくると、「おれが渡った橋の方がおまえが歩いた道よりも多い」だの、「おれがなめた塩だけでもおまえが食った飯の量よりも多い」だのと威張ってみたり、「頭髪長、見識短」(髪の毛は長いが、知恵は足りない)などと婦女子を見下したりもする。(執筆者:上野惠司)

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