中国に一番「近い」島 第2回-深町英夫・中央大学経済学部教授

 石垣島の西南端、東シナ海に沈む夕陽が眺められる観音崎に、中国風の鮮やかな緑色の瓦屋根を頂いた石碑が建っている。これが台湾人の移住に先立つこと約80年、1852年に石垣島を巻き込んだ近代国際政治上の事件、いわゆるロバート=バウン号事件の死者を祭った唐人墓である。


 中国東南沿岸部の福建・広東両省は、古くから海外移住の伝統を持つ土地柄だが、特に19世紀中頃になると人口圧力や社会動乱により海外への移民が増え、列強が植民地開発を行なっていた東南アジアや、西部開拓が急速に進んでいた米国へ、「苦力(クーリー)」と呼ばれる中国人労働者が数多く移住する。その様な状況下で、事件は起こった。

 福建省アモイからカリフォルニアへ向かって、400余人の「苦力」が米国船籍ロバート=バウン号で輸送されていた。恐らくは衛生上の懸念と差別意識とから、米国人船員が「苦力」の辮髪を切ったり病人を海中に投棄したりしたため、憤激した中国人が蜂起して船長ら7人を殺害する。

 やがて船は石垣島沖に漂着し、380人の中国人が下船・上陸すると、清朝と朝貢‐冊封関係に在った琉球王国の現地当局は、仮小屋を建ててこれらの「唐人」を保護し、島民も衣食を差し入れた。しかし、事件の報告を受けた中国駐在の米英両国領事は、海軍艦船を石垣島へ派遣して「苦力」を強行捜索し、3人を射殺、80人を連行する。その後、自殺者や病死者が続出したが、事件発生の1年半後にようやく生存者172人が琉球船で福州に送還され、石垣島で落命した128人は現地で手厚く葬られた。

 それから100余年、石垣島の統治者は琉球王国から大日本帝国、更に米国へと移り変わった。その間に「唐人」達の墓が荒れ果てたことを憂えた、郷土史家で石垣市助役の牧野清氏の発案により、日本復帰が求められる中で将来の日中友好の象徴とすべく、石垣市長を委員長、上述の林発氏を副委員長とする唐人墓建立委員会が組織される。

 台湾人の多くが「唐人」たちと同じ福建省南部に「祖籍」を持つという縁も有ってか、この事業には石垣島や沖縄本島の台湾系華僑が参加しただけでなく、林発氏を通じて中華民国政府も支援を行ない、1971年に唐人墓は完成した。

 中央部にはめ込まれた「石垣市唐人墓」という題字は、蒋介石総統(当時)の揮毫したものである。その後、先に述べた様な激動を経た1980年には、中国大陸から福州市長が唐人墓を訪れて献花・焼香している。
また、華僑総会の人々が1982年に全面改修を実施し、近年では春の「清明節」に供養を行なっており、今年は唐人墓自体の整備・改修に加えて、台湾系住民の祭祀のための廟も付設されるという(以上、西里喜行・牧野清・田島信洋・野入直美・松田良孝各氏の著作や関連報道も参照)。(執筆者:深町英夫・中央大学経済学部教授)

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