―市川猿之助はどんな人でしたか。
曽麗卿:最初は口が重い人のように思いましたが、公演が成功するとだんだん明るくなり、私もほっとしました。市川猿之助の口が重いように感じたのは、公演について色々心配し、北京に来るまでの数日間、眠ることができなかったからだということでした。トップレベルの役者でも、芸術や仕事に対して非常に真面目に取り組んでいる様子をひしひしと感じることができました。
―梅蘭芳は市川猿之助と京劇の『洛神』を演じたそうですが、2人の交流はどのようなものだったのか。
曽麗卿:市川猿之助の北京公演の合間にレパートリーの『洛神』を演じ、歌舞伎と京劇の女形の演技や、京劇俳優の養成システム、日常生活と演技との関係についていろいろ話し合っていました。また梅蘭芳は、1919年に日本を訪問した時に中村雀右衛門から化粧の方法を教わり、そのあとずっと日本から持ち帰った筆やハケで化粧をしていると話していました。
―新中国成立後、最初に行われた訪中公演について。
曽麗卿:とても高いレベルの芸術交流でした。日本の歌舞伎と中国の京劇はともに両国の超一流の芸術です。市川猿之助の公演は、中国の京劇愛好者に、日本にも古典劇があり、内容も京劇と同じようで、忠義と才幹を称えるものだということを紹介しました。
そしてこの歌舞伎座の訪中は、その後ほかの芸術団体の相互訪問の道を切り開きましたし、翌年の梅蘭芳の訪日公演も実現しました。その後、バレエや新劇などの芸術団がほぼ毎年、中国を訪問しています。
市川猿之助の中国での公演の大きな意義は、両国の人たちの距離を縮めたことです。当時はまだ新中国が成立してからまだわずか数年しか経っておらず、両国間にはまだ外交関係が樹立していませんでした。日本の人も、社会主義の中国の国民がどんな生活を送っているか知らなかったと思います。旧日本軍の印象がまだ鮮明だった中国の人たちが、この公演をどのように受け入れるかも分からない頃でした。
しかし訪中団は、公演先で関係責任者の歓待を受け、言葉が分からなくても芸術が分かる観客の大きな歓迎を受けました。訪中公演は大成功で、市川猿之助一行は、中国で感じた深い友情を持ち帰り、中国に親近感を深めたと思います。深センから中国を発つ時、日本の俳優たちは別れを惜しんで涙を流しました。市川猿之助は、芸術の使者であるとともに平和と友好の使者でした。(文中、敬称略)
※この記事は、「中国網(チャイナネット)日本語版」による提供です。中国網は中国国務院新聞弁公室の指導を受けて、中国互聯網新聞中心が各国語で運営する、中国政府による中国情報ポータルサイトです。
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