“唯美主義”216篇
“審美主義”64篇
“耽美主義”0篇
日本語で「耽美主義」も同義語として使われるので、同時に調べてみたが、これによれば、“耽美主義”は一般に中国語では使われないと考えていいだろう。“唯美主義”がダントツで、“審美主義”は意外に少ない。時期で区切って調べてみてもこの割合はあまり変わらない。そして、多くの論文は“唯美主義”なり“審美主義”が翻訳語であることに自覚的だった。この両者の区別に論及していた一つが、「周作人の審美主義について」《論周作人的審美主義》(《西北大学学報哲学社会科学版》27-4、2008年8月)だ。
それによれば、“審美主義”も“唯美主義”も英語では“aestheticism”で同じだが、中国語では区別があって、“唯美主義”は芸術を出発点とし、かつ思考の重点とする「芸術のための芸術」の態度で、過度に芸術の純粋性を幻想しようとする芸術至上主義なのだという。
CNKIの論文目録を眺めた印象でも、ワイルド、ポー、郁達夫、邵洵美等を対象とする文学芸術方面の論考が“唯美主義”を好むのに対し、ハイデガー、ニーチェ、マルクーゼ、シラー等を扱う美学哲学方面のものは“審美主義”を好む傾向がある。私の手元にある李暁林『審美主義:ニーチェからフーコーまで』《審美主義:従尼采到福柯》(社会科学文献出版社、2005年)も、副題の通り、ニーチェから、ハイデガー、ジンメル等を経てフーコーまでの美学=倫理学を論じている。
もう一つここで取り上げる論文は、王一川「二種類の審美主義変体とその特徴」《両種審美主義変体及其互滲特徴》(《社会科学》2006年5期)だ。こちらは本文の中につぎのような論述がある。
審美主義というのは英語のaestheticismの中国語訳で、長い間“唯美主義”と訳されてきた。しかし唯美主義と言うと、少し歴史を記憶している人間なら知っているように、これは従来、ブルジョア階級が称賛する「芸術のための芸術」の頽廃思潮と見なされて否定され清算されてきたものである。
こちらはもう少し歴史的で、用語に対しても自覚的な説明になっているが、「ブルジョア階級」の「頽廃思潮」として否定され清算されてきたことをもって、“唯美主義”を使用しない理由にするというのは、「これまでの学術的な偏見を越え、改めて反省を加えようとする態度」とは逆方向のむしろ思想的逃避ではないかという気もする。とはいえ、ある種手垢にまみれた“唯美主義”という用語を嫌うという感覚は理解できる。王氏の言うことを裏返していえば、従来“審美主義”という用語はあまり使われなかったからこそ、政治的な批判とも縁遠かったということになるだろうか。ともかく、李氏も王氏も“唯美主義”をやや排他的に「芸術のための芸術」と結びつけて“審美主義”と区別したうえで、“審美主義”を用語として採択しているという点は共通する。そしていずれも研究対象として周作人を扱っているという点は興味深い。
ここに、周小儀『唯美主義と消費文化』《唯美主義与消費文化》(北京大学出版社、2002年)という著書がある。実証的な手続きと鋭利な批評がマッチした佳作で、私は授業のテキストにも採用している。著者は元来が英文の人なので、中文関係の資料の扱いと細かい史実把握に難があるが、資料に対する書誌的な説明や注記が丁寧で、内容も、近現代中国を扱った後半部分など実におもしろい。ところが、この著作は周作人を張競生とともに近現代中国を代表する“唯美主義”者と見なしている。周小儀氏の元来の専門がワイルド研究なので、“唯美主義”を議論するのは当然だが、周氏が批判的に扱う唯美主義の代表人物として、はたして周作人が適格なのかどうかは大いに疑問だ。さきほど例に挙げた李涛氏の論考は周小儀氏のそのような議論に対する反論として読めるだろう。
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