3月下旬に北京を訪れた。西単や王府井などの大きな書店をのぞくと、著名な伝記作家である葉永烈の『「四人組」興亡』が山積みにされていた。
上中下3巻、1400ページを超える大作で、今年1月に人民日報出版社から刊行されたものである。

 その第19章(下巻)「与林彪又握手又〓脚」は、林彪グループと江青グループ(四人組)の協力と対立の複雑な関係を描いている。そのなかで葉永烈は、林彪が国家主席への就任、ひいては最高権力の簒奪をはかった「証拠」のひとつとされてきた葉群(林彪の妻、共産党政治局員)の発言を記している(1082ページ)。葉群の発言とは、「国家主席を設けないなら、林彪はどうしたらいい、どうなる?」という、よく知られたものである。葉永烈も葉群発言を事実として受けとめている(〓は足へんに易)。

 この葉群発言は、林彪事件(1971年9月)後に拘束された呉法憲(空軍司令員、共産党政治局員)の自供にもとづいている。林彪を支えた「四天王」のひとりである呉法憲に対して葉群が語ったというもの、つまり、葉群と呉法憲しか知らない「秘密」を呉法憲は自供したのである。葉群は林彪とともにモンゴルで墜落死している。

 しかし、前回のコラムで紹介した『呉法憲回憶録』によると、葉群発言は実は呉法憲自身の偽証にもとづくもので、呉法憲はその経緯をくわしく述べている(788ページ)。葉群発言とされてきたものは、毛沢東の側近だった汪東興(共産党政治局員候補。華国鋒時代には共産党副主席)が江西省の革命委員会主任だった程世清に語ったもので、呉法憲は程世清から聞いたという。江西省は林彪グループが権力の座から転落するきっかけとなった「廬山会議」(1970年8~9月)の開催地である。


 取り調べにあたった者たちは、林彪に「野心」があった証拠をなんとしてでも集めようと呉法憲をせめたて、汪東興の発言を葉群の発言とするよう迫った。呉法憲はしばらくは抵抗していたが、「さまざまな巨大な圧力」を受けて、屈してしまったというのである。「ここには当然、私に一定の責任がある。だが、歴史は歴史である」と呉法憲は記している。そして自供書を書いた際、偽証した部分についてはみな印をつけており、今、その自供書を見れば、迫られて「うそ」を書いた部分がわかるという。

 汪東興にも回顧録がある。『汪東興回憶:毛沢東与林彪反革命集団的闘争』(北京・当代中国出版社)で、手元には1997年刊行の第1版と2004年刊行の第2版がある。本の体裁は大きく異なるが、葉群の発言か、汪東興の発言かに関する部分に異同はなく、「呉法憲の1971年10月21日の自供によれば」として葉群発言を記している。そして、「これは林彪が国家主席就任を願っていたことを明白に示している」と述べている(いずれも25~26ページ)。

 次回以降のコラムで触れるが、廬山会議の途中で毛沢東が林彪グループを厳しく非難するまで、汪東興と林彪グループとの関係は良好で、汪東興は林彪グループと同じく国家主席制度の維持を強く支持していた。葉群発言か、汪東興発言かについて、私自身は『呉法憲回憶録』における呉法憲の弁明に軍配をあげるが、事実は明らかにされねばならない、明らかにしなければならない、と強く思う(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

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