毛沢東らにとっての事実とは何か。林彪事件の直前、1971年8月中旬、毛沢東は北京を離れて専用列車で南へ向かった。武漢や長沙などで地方の指導者に会い、共産党中央指導部の現状について説明した。毛沢東は林彪との間で深刻な闘争が進行中であることをはっきりと告げたうえで、自分の側につくよう “遊説活動”を行ったのである。林彪らが国外逃亡をはかるのは、毛沢東が南方から北京に戻った9月中旬のその夜のことである。
毛沢東は南方で何を語ったのか。この遊説に随行した側近の汪東興(華国鋒時代の共産党副主席)の回顧録によると、毛沢東は「廬山会議はふたつの司令部(毛沢東の司令部と林彪の司令部のこと――筆者注)の闘争だった。(中略)彼らは形のうえでは張春橋に反対したが、実際には私に反対したのだ」、「廬山でのことはまだ終わってはいない」などと述べた。そして、1カ月近い旅を終えて戻った北京の豊台駅でも首都の指導者たちに、「黒幕は陳伯達ひとりではない。まだ黒幕がいる」と語ったのである(『汪東興回憶:毛沢東与林彪反革命集団的闘争』中国・当代中国出版社、1997年、99、152、175ページ)。
廬山会議とは、このコラム(第3回)ですでにふれたように、1970年の8月から9月にかけて江西省の廬山で開かれた共産党中央委員会総会のことである。
毛沢東の話の要点は、毛沢東の後継者である林彪こそが毛沢東反対派の張本人であり、林彪たちとの闘争にはまだ決着がついていない、ということである。それは、林彪を打倒するぞ、という毛沢東の宣言だった。毛沢東は当時、中国の多くの国民にとって神的な存在だった。毛沢東の話を聞いた地方の指導者たちは毛沢東の話をそのまま信じ、打倒すべきは林彪とその仲間だと思ったに違いない。
この南方での毛沢東発言は秘密裏になされたものだった。林彪の側近で、林彪事件後に逮捕された呉法憲(当時、空軍司令員)は、十数年後に初めて毛沢東発言の内容を知った。そのとき、「毛主席は言行不一致だ」と感じ、それまで心に抱いてきた輝かしい毛沢東像は崩れてしまったという。理由のひとつは、呉法憲ら林彪グループの将軍たちが廬山会議後に自己批判したとき、毛沢東は面と向かって「私はおまえたちを守る」と約束したにもかかわらず、地方の指導者たちに向かっては呉法憲らを打倒することについて語っていたからである(『呉法憲回憶録』香港・北星出版社、2006年、下巻859~861ページ)。
毛沢東は劉少奇に対しても、やさしいことばをかけておきながら結局は悲惨な死に追いやった。呉法憲は同じ回顧録の別のところで書いている。
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