この国が、歴史的実在としてはローマ帝国であることは疑いない。
この国は、「日の沈むところに最も近い大国」とされ、地域的には西海(西洋)にあるから「海西国」であり、他方ではその中の最大の都市として、ローマ帝国の経済的中心であるアレクサンドリアが知られていたらしく、そのため「犂軒(リケン)」という別名も持っている(もちろん異説もあるが、大筋はこんなところだ)。
だが現実との対比はさておき、問題なのは、「大秦」という国名である。この二字を分解すると、「大きな」「秦」。「秦」とは言うまでもなく始皇帝の秦帝国で、これが「Sina」や「Tina」として西方に知られ、やがては「China」の語源となった。外国人は中国人を「秦人」と呼び、唐代の北インドでは、中国のことを「摩訶震旦(マハー・チナ)」と称していた(これが鏡のごとく逆に誤り伝えられて西方の国を指すことになったのだとも考えられるが、いまはそれとは別の議論をする)。
つまりは、「Great China」。中華意識の権化の中国人が、西戎の中の西戎であるはずの西の果ての国を、グレート・チャイナ、中国よりも大きな中国と、なぜ呼ぶのだろう。
これには中国人自身も苦しい説明をしていて、大秦国の住人は「背丈が大きく落ち着きがあり、自ら『中国人と同じルーツだ』と言っており、それで『大秦』と呼ぶのだ」と書いて、とりあえずの平仄をつけている。
ところが、「大きな中国」と解釈できる国は、他にもあるのだ。それは北インドにあった「大夏国」で、匈奴に河西(現在の甘粛)を追われた月氏によって征服された国だ。この名はいちおう、この地域に広がっていたケントゥム系印欧語族トハラ/トカラ人の民族名の音写だとなっているが、それにしても、聖天子禹の建てた中国最初の王朝である「夏」の文字を宛てるというのも、ずいぶん思い切った話だと思う。
一方、件の「月氏」は中央アジアから北インドを征服して「大月氏」と名乗り、甘粛祁連山に残存した者たちは「小月氏」として区別されたし、西アジア全域を支配したアルサケス朝パルティア(安息国)のルーツはやはり中央アジアにあったので、そこは「小安息(小安/東安)」と呼んで、当時の中国人はきちんと認識をして「大」「小」を付している。しかるに、「大秦」あれど「小秦」なく、「大夏」ありて「小夏」またない。もしもかりに自分たちがルーツであったと考えたとしても、誇り高い中国人が、自らに「小」をつけるなどとは、とうてい考えられないではないか。
そこで、もっと大胆に発想を変えてみる。つまり、「夏」だの「秦」だのの文化や民族の源流こそが、元来はるか西の彼方にあったのではないか。そして、2000年くらい前の中国人は、自身そのことをそれとなく勘付いていて、あるいはそこはかとなく記憶していて、こんな形でそれが反映されているのではないだろうか。
夏や秦が、西方の麦作混合農耕文化/灌漑農耕文化や牧畜文化に淵源を持つことは近年ますます明らかにされてきているし、4000年前の楼蘭のミイラには白い肌のコーカソイドがおり、秦の兵馬俑軍団にも高い鼻の兵士がいたようだ。増田精一先生の著書によると、月氏もまた、印欧語族ケントゥム系の基層の上にサテム系が乗って形成されたものだとあって、そのケントゥム系はまさにギリシア・ラテン・ケルト・ゲルマンなどの西欧人の元祖なのだから、そうした点から考えると、「ローマ人と中国人のルーツは一つだ」という「大秦国」の記述も、なにも中国人の苦しまぎれというのではなく、案外正鵠を射ているのかもしれない。そしてさらに「大夏国」のことを考え合わせれば、まさに中央アジア、それも現代のアフガニスタンこそが、文化と民族交流の要衝、文明の十字路、国際勢力の角逐の中心となるのである。
かつての大英帝国、30年前のソビエト連邦、そして現在ではアメリカを筆頭とする西欧がアフガンにこれほどまでに執着するのも、文明史的観点からすれば、このように見える。
とはいえ儒教の中国は、いつに変らぬ理想の王朝である「周」の名だけは、さすがに他国に冠することはしなかったようだ。だがじつは他ならぬ周こそ、横断山脈を介した西方文化伝達の代表者である「羌」(小月氏は後に羌に融合し、また宋代、甘粛には党項〈タングート〉羌が「〈西〉夏」を建てている。
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