青銅で作られた孔子像は天安門広場の東側に位置する国家博物館の前にそびえ、有名な東長安街に面している。この彫像は孔子の立ち姿である。表情は優しさと厳しさ、威厳と穏やかさ、恭しさと安らぎ(温而厳、威而不猛、恭而安)のバランスがよく取れている。髯を胸まで垂らし、袖を風に靡かせている。合掌をして前を見つめている孔子は宝剣を挿している。彫像のベースには「孔子」という二文字と出生死亡時が書かれてある。
孔子という人物は中国では誰もが知っている「聖人」として、中国伝統文化の代表者で、中国文化の象徴である。孔子の彫像の前に立つと、文化的な感銘がこみ上がるし、孔子の思想に関する連想が浮かび上がると、あるマスコミは大げさに騒いでいる。いわば「思いが千古と繋がる」わけである。筆者はこういう滑稽きわまりない言い方に対して、吹き出さずにはいられない。
実際、天安門広場での孔子彫像建設にはいろいろな非難が飛び交った。
孔子の思想は個人の主張と民主を制限してきた。毛沢東はかつて孔子の思想を否定した。ここには深刻な歴史的背景がある。長い歴史から見ると、中国は最も基本的な民主さえ保証されていなかった。その最も基本的な民主というのは一般人が自由に発言できる民主である。
天安門広場での孔子彫像の建設の目的は「精英統治の尊卑思想の樹立」にあるように見える。国民を現状に満足させ、現実を受け入れさせ、いわゆる「正統」を維持するためである。言い換えれば、子々孫々尊卑思想に従って、個性のない奴隷的な思想を貫くためである。
中国は儒教文化で国家を治めていることを世間に言いふらすことこそが孔子像建設の本当の意図であろう。しかも国民は現有の管理モデルに従うべきであることを、政府役人は自粛と反省で腐敗不正を除去するべきであることも示唆している。しかし、単なる自粛と反省によっては中国人は本当の自由を得ることが不可能であるのは明らかである。
中国での最大の課題はどうやって現代化(近代化)を実現するのかである。温家宝首相は2010年の両会(全国人民代表大会と中国人民政治協商会議)で 「中国は現代化を実現するまで、少なくともいまから100年以上の時間が必要である」と述べた。それは悲観的な見方であるように見えるが、そうではなく、実に明晰な見方である。その見方から次のような結論が抽出できる。中国は現在の民主(形式的な民主)を実施し続ければ、中国人の民主(実際の民主)は変質しかねない。もしくは民主はなんとも言えない変な形になってしまうかもしれない。まさに農夫が驢馬を乗って高速道路を走るような滑稽なものになる。
中国がなかなか現代化に進めないのは、中国人が人間としての道徳に欠けているからである。
民主の背後には道徳があり、道徳の背後には信仰がある。実際、10億以上の中国人には信仰などは存在していない状態である。その状態こそが一番危ない状態であり、社会的な共同意識と民主の実現が不可能になる根本的な原因である。信仰を持たない人間が権力を手に入れると、得てして底なしの欲張りになる。国においても同様である。例え国が変革を成し遂げても、道徳、倫理的な基盤がなければその変革はうわべの形だけで、本当の意味での変革はあり得ないのである
信仰だけが中国を塗炭の苦しみから救うことができる。
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