モーリーの考察。広島市「教育勅語引用問題」の根底には何がある...の画像はこちら >>
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、広島市の職員研修における「教育勅語」の引用をめぐる問題から、政治が保守派に堂々と″ウインク″を送るようになったことの問題点を指摘する。

* * *

広島市長が2012年から、市の職員研修で「教育勅語」の引用を続けていたことが問題となっています。

市長は「(教育勅語の中にも)良いものがある」と理解を求めていますが、"上の句"で美辞麗句を並べた後、"下の句"では天皇や国への忠誠を求めているに等しい「教育勅語」の上の句の一部だけを切り出して評価するのはやはり無理があります。

「公」への奉仕という精神性は当時の国際スタンダードであったとの主張も成り立つかもしれませんが、それを伏せて他部分の内容について「現代にも通用するかどうか」を問うているわけですから、明らかにバランスを欠いていると言わざるをえません。

歴代都知事の慣例を放棄し、就任翌年から関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送っていない小池百合子都知事しかり、公園に設置されていた朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去し、「最高裁の判決に従った」とだけ説明した山本一太群馬県知事しかり。昨今散見される首長の「踏み込んだ言動」は、果たして偶然の一致でしょうか?

共通するのは、ニュートラルなスタンスを装いつつも、"右派支持層へのウインク"という打算が見え隠れすることでしょう。歴史には多面性があり、多くの人が批判している問題にも別の側面がある。私は是々非々で議論したい。

......こう聞くともっともらしいけれど、それはおそらく確固たる政治的信念ではない。ぬるく右を向いていたほうが得だからやっているだけ――少なくとも私の目にはそう映ります。

しかもその副作用として、行政が政治に忖度して歴史検証に絡む事案を避けるようになったり(東京都では2022年、都の施設で開催された企画展で、朝鮮人虐殺を題材とした映像作品の上映ができなかったケースがあったようです)、社会の右傾化が進行したりしても、「自分は歴史修正主義を肯定したことは一度もない」などとギリギリ言い逃れできるような振る舞いを意識しているようです。

こんな火遊びが成り立ってしまうことの背景には、投票率の低さや政治への無関心、歴史認識を巡る議論の不足があります。市民団体やリベラルメディアは、こうした事案が起きるたびに批判をしますが、悲しいかな、世間はそれをスルーするか、もしくは「いつもの反応か」とレッテル貼りし、さほど盛り上がらない。

保守系政治家にとってはある種のイージーモードともいえるこの状況をひと言で表現するなら、「ボトムアップ型の市民社会が成熟していない」ということになるでしょう。

戦後の日本社会では、教育現場でもメディアでも、面倒な議論が徹底的に回避されてきました。高度経済成長期においてはそれが「最大公約数の幸福」に寄与した面もあったのでしょうが、その結果、「やぼな議論はしないが吉」という処世術がまかり通るようになりました。

この状況を変えるには何が必要か。ヒントとなる事例があります。

イギリスのリベラル紙『ガーディアン』は昨年、同紙の誕生が奴隷制度に依拠していた面があることを謝罪し、19世紀にさかのぼって検証するキャンペーンを展開しました。そこまでしなければ今後、報道の説得力や正当性を担保できないと考えたからでしょう。

またイギリス王室やオランダ政府も、奴隷貿易の歴史を検証する姿勢を見せています。

同じことを、日本のマスメディアにもやってほしいと思います。天皇の戦争責任や軍の戦争犯罪、マスメディアの軍国主義への加担、国民の熱狂、そして終戦直後のGHQによる言論統制。毎年、終戦の日前後などに"お約束"としてやるものではなく、不都合なことも未来のために検証し、広く公開の議論に供する。

そうすることで、例えば「教育勅語」に関する報道の説得力も、まったく違うものになるはずです。