「ゲームは一日一時間!」
1983年、任天堂から「ファミリーコンピュータ」、通称ファミコンが発売。以後、全国で大ブームを巻き起こし、やがて様々な分野にも影響を与えていくこととなる。
ゲームメーカー、ハドソンの一社員であった彼が1985年に「高橋名人」としてイベントや雑誌に登場するやいなや、一躍子どもたちのスターとなった。
2025年は高橋名人の"名人就任"から40年という節目の年。名人になる以前からハドソン退社後、そして現在に至るまで、ゲーム業界とともに最前線を走り続けてきた高橋名人に、年代ごとに特に印象的なゲームタイトルについて語っていただいた。
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最初の"裏技"は『スペースインベーダー』!? ~1970年代の推しゲー~
――名人ご就任40周年、おめでとうございます! 名人が初めて印象に残ったゲームタイトルは何でしょうか?
高橋名人(以下、名人) 人生で初めて衝撃を受けたのは、当時スーパーでアルバイトをしていた頃に登場した『PONG(ポン)』(1972年、アーケード)ですね。これは言ってしまえばテーブルテニス、卓球のゲーム。ボールをバーで打ち合うだけのシンプルなゲームなんですが、ビデオゲームの"はしり"のような作品で、すごくインパクトがありました。
やがて、互いにボールを打ち合う2人用の『PONG』から、壁を相手にする1人用の「ブロックくずし」に派生し、のちに『スペースインベーダー』(1978年、アーケード)に繋がっていきます。『スペースインベーダー』は「ブロックくずし」の壁が攻撃してくる、という発想ですよね。さらに画面が上にスクロールするようになると、『ゼビウス』(1983年、アーケード)になる。
――『スペースインベーダー』も『ゼビウス』も、一世を風靡した伝説的名作です。
名人 そうですね。いわゆるシューティングゲームの源流が『PONG』になると思います。
――『スペースインベーダー』は、1970年代に大ブームを巻き起こしました。
名人 当然、私もハマりました(笑)。これも外せない作品で、当時タイトーの西門(友宏)さんが「ゲームを部品から作るのではなく、プログラムで作る」ことに注目して生まれた傑作です。
このゲームがブームになった理由はいくつもあると思うんですが、やっぱりそれまでに遊んだことのなかった体験を生み出したからでしょうね。こっちが攻撃して、相手も攻撃してきて、相手を倒したら勝ちだし、やられたら負け。それで、ステージをクリアするたびにスピードが上がっていってどんどん難しくなる。そういうゲーム性なので、クリアするにはコツがいるし「名古屋撃ち(※1)」なんていうテクニックも生まれました。あれはプログラムの隙をついているので、仕様ではなく「裏技」かな。ゲーム業界初の「裏技」(笑)。
※1 名古屋撃ち:インベーダーが自キャラに近いときは攻撃を受けないという、プログラムの隙をついたテクニック。
あとは、得点も重要な要素ですね。「自分は何点までいった」「俺は何点」なんていう会話が日本中で交わされていましたし、『スペースインベーダー』の筐体がずらっと並んだインベーダーハウスに「今週の1位」みたいに得点表が貼られていて、みんなそれを超えようとして熱中していました。この頃になると、多くのビデオゲームが作られるようになってきていて、私も色んなゲームをつまみ食いして遊びましたね。

「当時よく読んでいたマイコン雑誌の裏側にハドソンが広告を入れていて、よく知っていた。それで友人が入社面接を受けるというので一緒に行ったら、僕だけ受かっちゃった(笑)」と、ハドソン入社秘話を語る高橋名人
ファミコンの発売、そして"名人"誕生! ~1980年代の推しゲー~
――続いて1980年代に入ります。ちなみにこの頃の名人はどういった状況でしたか?
名人 私は1982年にハドソンに入社しましたが、その1~2年くらい前にパソコンを買って、一時BASIC(プログラミング)の世界に足を踏み入れたことがありました。この頃はプログラミングをするのが楽しかったから、当時新発売だった任天堂の『ゲーム&ウォッチ』(1980年)も遊んでないんですよ。
――意外ですね...! ハドソン時代も含めて、名人がプログラムされたゲームは世に出ていないんでしょうか。
名人 いやいや、もう宣伝と営業が本業でしたから(笑)。まあ、あえて挙げるなら1984年に「ファミリーコンピュータ・ファミリーベーシックがわかる本」という本を出したんですが、この本に10本くらい収録されているサンプルゲームは私がプログラミングしています。1本が2キロバイトくらいの容量なので、大したモノではありませんけど(笑)。

なんとメディアは本に付属のカセットテープ。ここに高橋名人作のゲームが収録されている!
――当時知っていれば、遊んでみたかったです。それではこの時代の思い出のゲームについて教えていただけますか。
名人 この時代は、やはり『パックマン』(1980年、アーケード)、そして『スーパーマリオブラザーズ(以下、スーパーマリオ)』(1985年、ファミコン)は外せません。特に『スーパーマリオ』は、ファミコンの人気を決定づけた1本となりました。
今考えると、この頃の任天堂はテレビCMとかをあまりやっていなかったので、今風に言うならバズった作品と言えるかもしれません。普通は発売前に雑誌で記事を載せるんですが、発売後に各出版社さんにサンプルを送って記事展開をしていたと記憶しています。当時は、よくコロコロコミック編集部さんにお邪魔していたので(笑)。
――当時は『スーパーマリオ』を持っていない家はないんじゃないか、くらいの頻度で見かけた気がします。
名人 この作品は、いい意味で私たちの常識を覆してくれました。ただゴールするだけではなくコインを集める楽しさもありますし、強くなったら大きくなって、やられたら小さくなるという表現や無敵の表現、デジタルゲームの遊び方と楽しみ方の基本を教えてくれたようなゲームでした。
ただ右に向かって走ったりジャンプしたりするだけのゲームなのに、子どもたちも大人も夢中になった。
――ハドソン社員時代、任天堂にライバル心のようなものはなかったんですか?
名人 当時はサードパーティーとして任天堂さんのプラットフォームを借りていた側でしたので、ライバル心はなかったです。ちなみに任天堂さんに企画書を出してゲーム化する・しないを判断してもらう、という流れを最初につくったのはハドソンらしいです。
任天堂さんがアタリショック(※2)のような事態を避けるためにサードパーティーは厳選しよう、という話をしていた際に、ハドソンが「ファミリーベーシック」(1984年)を開発していた縁で「ウチもソフトを出したい」と声かけをさせていただいて「それじゃあ企画書を...」といった感じで決まっていったとか。
※2 アタリショック:1982年~1985年頃に北米で起こった家庭用ゲーム機の市場崩壊の通称。当時、業界最大手だったアタリ社を始めとしたメーカー各社がゲームソフトを粗製濫造したことでユーザーがゲーム離れを起こし、市場崩壊に繋がったとされる。
――ちなみに、名人と呼ばれるようになったのもこの頃ですか?
名人 そうです。当時、コロコロコミックの「まんがまつり」というイベントがあって、その告知で当時の副編集長さんが「ゲームの達人が来る」みたいなノリで誌面に「高橋名人、来場!」といった記事を入れていて。別にゲームは上手くないんですが...(笑)。
私は「名人」と書かれていることを知らなくて、誌面を開いたら「なんじゃこりゃ!?」ってビックリして。その後に「全国ファミコンキャラバン」というイベントで高橋名人と正式に名乗るようになり、今にまで至ります。まさかそれから40年も「名人」と呼ばれ続けるようになるとは思いもしませんでしたけど。
――それは誰も予想できなかったと思います(笑)。80年代といえば、『ドラゴンクエスト(以下、ドラクエ)』が1986年発売です。

後に大ブームとなるシリーズの第一作目。当時の定価は5500円
名人 ああ、それも外せない作品です。RPGというジャンルを一躍有名にした名作。当時のファミコンユーザーは小学校高学年がメインで、タイトルもアクションやシューティングが多かったから、『ポートピア連続殺人事件』(1985年)のようなタイトルで文字を読むこと、コマンドを選ぶことを学ばせる。これは本当に正解でしたね。
ちなみに『ドラクエ』発売直後は売れ行きが予想より鈍かったらしいんです。でも当時、週刊少年ジャンプの鳥嶋(和彦)さんが、見切り発車で『2』の開発を始めさせたという話を聞いたことがあります。デザインをされていた鳥山明先生のご都合もありますし、あとはジャンプでガンガン宣伝すれば売れるだろうって(笑)。すごい時代でしたね。
『ドラクエ』を始めとするRPGのいい所は「レベルを上げれば何とかなる」ことで、当時ハドソンがよく出していたシューティングだと、クリアするにはある程度のテクニックが必要でした。
『ドラクエ3』の時はハドソンの社内中でもみんな遊んでいて「どこまで行った?」「次はどこに行くの?」なんて会話ばっかりしていたのを憶えています (笑)。

「ちなみに、個人的に一番好きな『ドラクエ』シリーズは『5』なので、もしリメイクするなら早く出してほしいですね(笑)」とのこと
【後編】に続く
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●高橋名人(たかはしめいじん)
本名・高橋利幸(たかはしとしゆき)。1959年5月23日生まれ、北海道生まれ。(株)MAGES.、アミュレート、(株)ビー・セブン所属。プロゲーマー兼ゲームプレゼンター兼実業家。ゲームメーカー・ハドソン在籍時に「高橋名人」として各種イベントなどで活躍し、現在も様々なメディアで精力的に活動中。
公式X【@meijin_16shot】
取材・文/石綿 寛(樹想社) 撮影/山添 太