’01年にグループを卒業、以降はソロ活動を続ける形で芸能界の第一線を走ってきた中澤さんにとって、東京を離れるのが大きな決断だったことは想像に難くない。福岡に移り住んでから10年が過ぎ、当時と現在、そしてこの先について何を思うのか。本人がその思いを語る。
引退も覚悟しての移住だった
ーー私が福岡出身ということもあり、中澤さんが福岡に移住する報道が出たときは「ゆかりもない福岡になぜ?」と、青天の霹靂でした。当時移住を決めた経緯を改めて教えていただけますか?中澤裕子(以下、中澤):夫は会社経営者なんですが、元々東京と福岡に会社を構えていたんです。結婚の話が出始めていた頃に一度「福岡に行きたい」と言われましたが、はじめはその気持ちがなくて断りました。
ーーそこから、なぜ福岡に移住することになったんですか?
中澤:’12年に子供が生まれて、価値観が変わったことが大きいです。モーニング娘。としてデビューが決まった時、「私は、モーニング娘。になるために生まれて来たんだ!」と感じたんですよ。
それが、娘を授かった時には「私は、この子を産むために生まれて来たんだ!」と思ったんです(笑)。
ある時、娘と二人でいるときに「この家族がいれば、住む場所なんてどこでもいいかも」とふと思えたんですね。
ーー人生の主役が、ご自身からご家族になったことが大きかったんですね。
中澤:家族が一緒にいること、娘をしっかり育て上げたい気持ちが大きくなりました。そうなると、夫と私がお互いに納得のできる環境に行くのがベストだと考えました。
ーーとはいえ、東京を離れれば芸能のお仕事にも制限がかかりますよね。
中澤:私自身が制限をかけるというより「もう使っていただけないだろうな」という気持ちでしたね。芸能のお仕事は、自分がしたいと思っても求められないと続けられませんから、引退でも仕方ないという覚悟はありました。
ママ友会への積極参加「怖いイメージを変えたかった」

中澤:「モーニング娘。」の頃は自分軸で生きていたのですが、育児をしているとそうも行かず、いろんなところに意識して飛び込んでいくようになりました。
自分からどんどん挨拶していこうと決めて、娘が幼稚園に通うようになったら、ママ友同士のランチ会に参加したり。「モーニング娘。」時代の怖いイメージで警戒されているのがわかるので(笑)。それまでは世間的なイメージとしての”中澤裕子”としては絶対しないと思われていることでも、母・妻としての私なら、積極的にやるようになりましたね。
ーーご家族の存在が影響を与えた部分が大きいんですね。
中澤:「どう見られても、自分のいいと思った表現をする」だけではダメだと思うようになりました。
良い面での変化もありました。東京では基本的に、仕事と家の往復が多かったんです。それが福岡に来て幼稚園の親御さんなどの繋がりから、お互いに子育ての相談をするような「お友達」ができました。
ーー福岡では、情報番組のコメンテーターなどを中心に活動されています。アイドル時代とは異なる仕事に挑戦してみていかがですか?
中澤:コメントする時、どの視点で意見が求められているのか迷うことがあります。アイドルとして?母親として?いち女性として?と。そこで、瞬発的な反応が遅れて「やっちゃった」と思う時はあります。まして、一人の身ではないので、私の一言で家族にどう影響が及ぶかわからない時代ですからね。
今も年に1度はソロライブを続けている
ーー以前より披露する機会は減ったかと思いますが、歌やダンスに対する「思い」に変化はありましたか?中澤:ずっと強いままです。産休やコロナ禍以外は、必ず年に1度はファンの皆さんの前でステージに立ち続けていて、今年も6月28日に東京の渋谷にあるGRITという会場で「中澤裕子 Birthday☆Live 2025 ~5+2~」というソロライブを開催します。
これは、3年後に迫っているハロー!プロジェクト30周年でのステージに向けてという思いもあるんです。
大きな決断をしながらでも。自分の本当に大切なことは何かを、常に考えながら現在に至っている中澤裕子さん。彼女の常に前向きな姿勢は、窮屈な時代を生きる私たちの指針にもなりそうだ。
<取材・文/Mr.tsubaking>
【Mr.tsubaking】
Boogie the マッハモータースのドラマーとして、NHK「大!天才てれびくん」の主題歌を担当し、サエキけんぞうや野宮真貴らのバックバンドも務める。またBS朝日「世界の名画」をはじめ、放送作家としても活動し、Webサイト「世界の美術館」での美術コラムやニュースサイト「TABLO」での珍スポット連載を執筆。そのほか、旅行会社などで仏像解説も。