ただ東京で生まれたというだけで何かを期待されるか、どこかを軽蔑されてきた気がする――。そんな小説家カツセマサヒコが“アウェイな東京”に馴染むべくさまざまな店を訪ねては狼狽える冒険エッセイ。
ディープなエリアに佇むお店に入りつつ、願いは今日も「すこしドラマになってくれ」
スパイスの逆襲【三ノ輪駅・山谷酒場(居酒屋)】vol.8
辛いものを好きになりたい。食べられないわけではないし、忌み嫌うほどのものでもない。けれど、決して自ら進んで食べようとはしない。適度な距離を保つことが私と辛いものにとっての幸せな道と信じ、カレーは常に甘口を選び続けてきた。
結果、この舌は「辛さ」の中にある「奥深さ」のような、何層にも重なる食の魅力に、気付けなくなった。
スパイスからカレーを作る友人が、聞いたこともない香辛料をいくつも取り出していく様を見たとき、どこか馬鹿馬鹿しく感じた。そこまで手間暇かけてどうすんのよ、なんて冷笑の眼差しを、得意げに鍋を振る友人に密かに向けていたのだ。
だから、ここにきて私は、スパイスの神様に逆襲されたのだと思う。
その日、三ノ輪駅から徒歩十分ほどのところにある「山谷酒場」という飲食店にいた。台東区と荒川区にまたがる山谷エリアはかつてはドヤ街として知られていて、昔は鴨川のカップルと同じくらいの間隔で酔っ払いが道で寝ていたらしい。
スパイスが有名な店と聞いて、かなりエスニックな雰囲気を想像していたが、実際は素朴で身近な居酒屋といった印象を受けた。エスニックが強すぎる店はそれだけで緊張してしまうので、親しみやすい内装は嬉しかったが、壁に貼られたメニューを見て、違和感を覚えた。
「ベルプリ」「パニス」「ハーブのポーハ」。文字は読めても、どんな料理なのか想像もつかない。未知なるメニューが冷や奴やポテトフライの横に、しれっと並べられている。
こういうとき、それらを無視して焼きそばだけ食べて帰れたらどれだけ幸せかと思う。しかし、許されないから仕事なのであって、つまり私は、いかにもスパイスな予感に溢れたメニュー「パニス」と「特製麻婆豆腐」に挑んだ。
パニスはまだ、優しかった。ひよこ豆をペースト状にして固めた料理らしく、色とりどりのクッキーのような見た目が可愛らしい。味についても、一つ一つのスパイスが異なるゆえに飽きがこないし、辛くもないので、お酒に合わせて楽しむことができた。
これならいけるかも、と希望を持ったところで、強烈な刺激臭が鼻を通過した。
大きな豆腐を小皿に載せ、ふうふうと冷まして口に運ぶ。火を噴く覚悟で咀嚼すると、口の中に、驚きが生まれた。
「あれ、いけるぞ、これ」
予想外だった。私の舌も、きちんと大人になっていたのか。もしくは、このお店の麻婆豆腐が本当に美味しいからか。確かに、猛烈な辛さではある。でも、それより手前で、美味さが勝つ。これが「奥深さ」というやつだろうか。
友よ、今ならお前の作るスパイスカレーも、大絶賛して食べられそうな気がするよ。
翌日、ひどい下痢に見舞われた。大型の噴き出し花火を逆さに向けたように、実に華々しい下痢だった。乗り越えたつもりのスパイスの逆襲は、少し遅れてやってきただけで、ちっとも私は変わっていなかった。その日からまた、カレーをスパイスから作る人間をほんの少し、好きになれないままでいる。
<文/カツセマサヒコ 挿絵/小指>
―[すこしドラマになってくれ~いつだってアウェイな東京の歩き方]―
【カツセマサヒコ】
1986年、東京都生まれ。小説家。『明け方の若者たち』(幻冬舎)でデビュー。そのほか著書に『夜行秘密』(双葉社)、『ブルーマリッジ』(新潮社)、『わたしたちは、海』(光文社)などがある。好きなチェーン店は「味の民芸」「てんや」「珈琲館」