英語も話せないまま18歳で渡米し、紆余曲折の末にロサンゼルスで警察官になった女性がいる。
「34歳のシングルマザー」という不利な条件を押しのけ、警察学校の試験に合格したのは、現在もアメリカの警察官として働いている永田有理さん


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 インタビュー前編では、アメリカで警察官を目指すことにしたきっかけや、警察学校に合格するまでの過酷な生活などについて伺った。

 今回は引き続き、警察学校での日々と、晴れて警察官になってからのエピソードをお届けする。

入学初日でプライドがズタズタに

——仕事を辞めて猛勉強し、晴れて警察学校に合格。なにもかもハッピーと思ったら、そこからも大変だったそうですね。

永田有理(以下、永田):
すでに貯金を使い果たしていたのですが、アメリカの警察学校では給料が出ます。そのおかげで生活面では助かったのですが、入校初日から過酷な試練が待っていました。

——そのときのエピソードを教えてください。

永田:
これは入学初日のことです。スーツ姿の約70人の同期と一緒に、何が起こるかわからないまま10分ぐらい立たされていたところ、いきなりドアが開いて警察学校の人たちが大勢入ってきました。そして1人に3人ぐらいついて、罵声を浴びせてくるのです。私も、「お前、女のくせに何やってんの?」「お前、ここでやっていける?」「チビだし、老けてんな」など、さんざん言われました。

それから、彼らは入学に必要な書類を持ってきまして、その100ページぐらいの紙が宙に放り投げられ、「今すぐこれ拾え」と命令されたのです。おまけに、スーツを着たまま、泥土の地面で走らせられ、スーツはたちまち真っ黒に汚れまして……。
こうして、みんなのプライドがズタズタになり、その日のうちにやめてしまう人もいましたね。

軍隊顔負けの過酷な日々…

——まるで、昔の軍隊のようですね……。2日目からはどのような感じでしたか?

永田:
初日は序の口で、次の日以降も、似たような厳しい世界が待っていました。肉体的な訓練だと、腕立て伏せを200回以上するのは当たり前。ただ「完全に止まらなければOK」というルールなので、腕がプルプルして限界に近くても、途中から形が崩れても、必死で続けていました。一応、その気力を買ってくれますが「お前できてないじゃないか」とかボロクソに言われます。連帯責任もあって、誰かがうまくいかないと「クラス全員、腕立て伏せ100回追加」と言われることもありました。

——それは過酷ですね……。警察学校ならではの訓練はどういったものがありましたか?

永田:
最初の1ヶ月は、ずっとこんな感じでした。とにかく辛い訓練もあって、教官にテーザーガンで撃たれて感電するとか、目に催涙スプレーをかけられて死ぬような思いをするなど……。一生記憶に残るツラい目にも遭いました。その後、訓練と通常の授業にくわえ、ペーパーテストを含めた試験が1日に3回もあったんです。ちなみに、合格しなかったら即クビになります。


——テストにはどういった問題が出るのでしょうか。

永田:
自分としては、瞬時に判断するテストが一番難しかったです。例えば、強盗の模擬訓練で自分が先に撃つべきかとか、高速度のカーチェイス訓練でどちらに曲がるか、といった問題がありました。

すべての誘惑を断ち切って警察学校を卒業

アメリカの警察官になった日本人女性が“命の危機”を感じた瞬間「いきなり後ろから襲われて、首を絞められ…」
自身のYouTubeチャンネルにて、さまざまな情報を発信している
——英語圏生まれでないことや身長の低さなど、不利な要素があるなかでの警察学校生活は想像に絶する過酷さだったと思います。そんな環境をどういった想いで乗り越えられたのでしょうか。

永田:
第一に「絶対に諦めない」という気持ち。あとは、決してフォーカスをずらさないことです。警察学校に入る前日に、そこのインストラクターが「家族にも友達にも自分は6ヶ月間存在しないと思ってもらうように」と言ったのです。それはずっと記憶に残っていて、肝に銘じました。どうしても、日常的に誘惑はいっぱいあるわけです。「たまには飲みに行こうよ」と誘われたり……。それで誘惑に負けると、自習時間がなくなってしまいます。

——すべての誘惑を断ち切ったわけですね。


永田:
2人の子供の面倒以外は全部シャットダウンして、学習に励みました。それこそ、テレビを観るのも音楽を聴くのも無駄だし、食事を作る時間も無駄なので、お弁当を買ってきて済ますとか。寝る時間ももったいないと、エナジードリンクを飲んで、睡眠時間を削っていました。結果的に56人で始まったクラスで卒業できたのは18人。私が卒業できたのは、すべての誘惑を断ち切って諦めずに頑張ったからだと思います。

新人警察官として仕事

——では続いて、卒業されてからのお話を伺いたいと思います。すぐにロサンゼルス空港警察に赴任したとのことですが、新人のときはどのような仕事だったのですか?

永田:
ロサンゼルス空港と、近隣のイングルウッドの境界をパトロールをしていました。この界隈は、ロサンゼルス中心街よりも危険なこともある、治安がやや悪いところです。職場に行って、ミーティングをして、すぐにパトカーで回ります。卒業してから半年間は、トレーニングオフィサーと呼ばれる警察官とパートナーを組んでいました。新人は基本的に夜勤で、夕方から翌日のお昼までというかんじですね。当時は1日10時間の週4日勤務でした。

1人でいると撃たれる世界

アメリカの警察官になった日本人女性が“命の危機”を感じた瞬間「いきなり後ろから襲われて、首を絞められ…」
YouTubeチャンネル「警察官ゆりのアメリカ生活」より
——アメリカは、日本と比較にならないほど犯罪が多いと知られています。治安が良くはない町に赴任して、日本の警察官の仕事とは、どんな点が異なっていましたか?

永田:
まず、普通にパトロールをしている時も、誰かに撃たれるリスクがあります。
そのため、常に気を張り詰めて、あちこちに神経を配らなくてはいけません。ちなみに、アメリカに交番がない理由の一つは「警察官が1人でいると撃たれる可能性が高いから」です。

おまけに、尋常ではないくらい忙しいです。日中の勤務では、昼食はほとんどとれません。とれたとしても、外食したら標的になる危険性があるので、私は壁側の席でないと外食はできないですね。背中に誰かいる状況でご飯を食べることは、精神的に難しいのです。

犯人に首を絞められたことも…

——実際に、身の危険を感じたことはありますか?

永田:たくさんあります。例えば1人で勤務していたとき、パトカーを降りてコンビニのトイレに行くと、いきなり後ろから襲われて、首を絞められたことがありました。そのときは、とっさに横を向いて少し息ができるよう気道を確保し、自分の拳銃を取られないようにしつつ、無線の緊急ボタンを押しました。こうすると、巡回中の警察官のなかで、私だけが30秒話せるようになるんです。話せる状態ではありませんでしたが、それで発信場所を探知できます。すぐさま仲間が駆けつけて、なんとか助かりました。
他にも、発砲事件の現場に行ったこともありましたが、私に命中したことはなく、こうして今も生きています。

 *  *  *

 アメリカで警察官の仕事をこなすことは並大抵のことではない。身の危険を感じながら警察官として働き続け、人身売買防止に力を注ぎ、恐怖や孤独を抱えながらも目の前の命に向き合っている永田さん。夢を諦めず、不利な条件すら力に変えた彼女の歩みは、多くの人に「挑戦する勇気」を与えてくれるだろう。

取材・文/鈴木拓也

【永田有理】
日本の高校を卒業後、渡米。現地の語学学校とカレッジを経て、紆余曲折の後にLAPD ACADEMY入学。卒業後はロサンゼルス空港警察(LAXPD)に勤務し、現在に至る。また、NPO団体ラブスペクトラムを立ち上げ、人身売買の防止や被害者を支える活動に取り組む2児の母。Amazon Kindleの著書『実録LA初 日本人女性警察官』2部作がある。

【鈴木拓也】
ライター、写真家、ボードゲームクリエイター。ちょっとユニークな職業人生を送る人々が目下の関心領域。そのほか、歴史、アート、健康、仕事術、トラベルなど興味の対象は幅広く、記事として書く分野は多岐にわたる。
Instagram:@happysuzuki
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