音楽評論家の渋谷陽一が7月14日、誤嚥性肺炎のため死去した。74歳だった。
松村雄策が亡くなったのは2022年である。3年前に亡くなった相棒の後を追うように、渋谷も天国の階段を登っていった。
 松村が亡くなったとき、渋谷はブログに書いている。

「長い闘病期間が続いていたので、心の準備はしていたが、やはり悲しいし悔しい」

 2年前、DJを務めていたラジオ番組『ワールドロックナウ』(NHK-FM)を渋谷がお休みすると発表して以来、正直、私たちも心の準備はしていた。渋谷が同番組に最後に出演したのは2023年11月4日。ローリング・ストーンズの18年ぶりの新作『Hackney Diamonds』を紹介した回だった。そう考えると、あれから随分経った気がする。

 とはいえ、ジミー・ペイジより先に旅立つとは。今秋にはレッド・ツェッペリンのドキュメンタリー映画『レッド・ツェッペリン:ビカミング』が公開される。同作について興奮気味に語る渋谷の声を聞いてみたかったが。

渋谷陽一さんが74歳で死去。「あるときは味方、あるときは敵」...の画像はこちら >>

リヤカーで手売りした「ロッキング・オン」が会社になっていく

 繰り返すが、渋谷の享年は74歳だ。キャリアのわりに若い。それもそのはず、彼はハタチそこそこの頃に「ロッキング・オン」を創刊したのだ。
渋谷、橘川幸夫、岩谷宏、松村の4人だけで立ち上げた同誌をここまで大きくしたのは、やはり功績だろう。

 素人に毛の生えた若者たちだけで結束し、リヤカーに積んだ雑誌を手売りするところから同誌を育て上げた渋谷。おそらく、リヤカーうんぬんの話は彼の創作だろうが、超のつく資産家だった母と東大卒の銀行員である父の間に生まれた氏である。逆に、その手の泥臭い労働に憧れていたのかもしれない。

 それでいて『ロック微分法』(ロッキング・オン)というタイトルの著書を発表するなど、学歴コンプレックスを伺わせるところもあった。

「ロッキング・オン」を読むと、各ライターによる批評を越えた主義主張をぶつけられたものである。編集部にいるのは、自己顕示欲が旺盛な者ばかり。そんな書き手が吐き出す気持ち悪さを感じずにはいられない文章も、読者からするとハマると抜けられない中毒性に満ち満ちていた。

 自意識過剰としか思えないロキノン的文体の数々は、渋谷よりその後に入った社員たちによって醸成され、ひとり歩きしていった印象。つまり、ロッキング・オンは会社になっていったのだ。

“意味不明のパワー”を放出する会社に

「ロッキング・オン・ジャパン」が創刊する流れのなかで、おもしろい話がある。渋谷と袂を分かった「ロッキング・オン」2代目編集長・増井修の著書『ロッキング・オン天国』(イースト・プレス)に載っていたエピソードだ。

「渋谷はBOØWYの“B・BLUE”のPVを取り出して、『ここまで日本語が乗っているロックが発明されてしまったからには、もはや邦楽を別物として傍観していられない』という状況説明をする、予定だった。
ところが実際にデッキに掛かったのは当時の日本初の裏ビデオだった『洗濯屋ケンちゃん』だった。誰かが持ち込んだものがたまたまラベルなし同士で並んでいた」

 渋谷の個人事務所のようだったロッキング・オンは、いつしか渋谷もコントロールしきれないほど意味不明のパワーを放出する会社になっていた。

「音楽評論家」ではなく「青年実業家」になった

 ロックとは洋楽が第一。日本のミュージシャンが誌面に登場することは滅多になく、出るとしてもRCサクセションなど限られたバンドだけ。そんなアティチュードだったロッキング・オンが、1986年に「ロッキング・オン・ジャパン」を立ち上げたのは歴史的転換だった。

 その後、「Cut」など音楽誌以外の雑誌も次々に創刊していった渋谷。つまり、彼はカルチャー全般にスポットを当てる役割を率先して担うようになっていった。

「Burrn!」初代編集長・酒井康が出版した対談集『虹色の音詞』(シンコーミュージック)に渋谷は登場、酒井から以下の質問を受けている。

=====

酒井:個人的に将来の夢って、あります? 渋谷さんは人脈が幅広いから、政治家になるのかなって思っているんですけど……(笑)。

渋谷:いや、それは全然ないです。僕はやっぱり雑誌編集っていうのが一番好きな仕事なの。楽しいという意味ではDJも凄く楽しいんですけど……刹那的なカタルシスがあって……。ただ、仕事として何か一つ選びなさいって言われたら、僕は雑誌編集者を選ぶと思うんです。
僕の夢は、とにかく20代で「ロッキング・オン」をやり、30代で「ロッキング・オン・ジャパン」をやり、40代になって、音楽とは関係ない総合誌を作りたいんです。で、それを60代ぐらいまでかかってやりたいですね。

=====

 宣言どおり、「音楽とは関係ない総合誌を作りたい」という目標を「Cut」創刊で実現させた渋谷。このように、ある時期までの彼は雑誌編集に対するこだわりを隠さなかった。しかし、次第に雑誌文化への見切りをつけ、音楽フェスへ注力するようになっていった。皮肉を込めて言うが、そのムーブは鮮やかだった。

 90年代前半までは、かろうじて「音楽評論家」の顔が強かった渋谷。しかし、90年代後半以降は青年実業家と認識するほうがあきらかに適当だった。長者番付に名を連ねるなど商売人としては優れた嗅覚を持つ人で、そのへんは本当に天才的だった。

「好きだから批判する」は絶対に正しい

「音楽評論家」という肩書から存在感が放出されなくなった現代。しかし、この肩書が影響力を持つ時代は確実にあった。渋谷陽一、大貫憲章、伊藤政則、ピーター・バラカン、中村とうよう……書いているだけで胸が熱くなってくる。

 なかでも“ツェッペリンの渋谷”、“クイーンの大貫”、“ジューダス・プリーストの伊藤”と呼ばれた三羽烏の存在がまぶしい。
70年代は彼らのラジオを聴いていさえすれば、洋楽はOKという感じだった。

 特にタレント性が高かったのは渋谷で「こんばんは、渋谷陽一です。今日の一曲目は~」と番組開始からそのまま曲を流すスタイルはなんとも心地よかった。

 もちろん、欧米ロックを活字で紹介する文化発信者としての役割も大きい。渋谷の評論を読み「どんな音楽なのか?」と興味を抱き、いざ聴いてみると失望する……なんて経験は、誰しも一度やニ度じゃ利かないはずである。つまり、インターネットのない時代背景が、逆に音楽評論家を神格化させていたということ。

 評論家としての渋谷陽一がまったくもって正しいのは、「好きなバンドだからこそ批判する」「ファンなのだから全肯定せず、最も手厳しい批評家として接する」という姿勢である。令和の時代には理解されず、“やさしい世界”を好むファンたちから総出で吊し上げを食らう可能性もあるかもしれない。

 しかし、いろいろな視点を取り入れた状態で曲を聴き、他者の批評をきっかけに想定外の魅力が自分内で立ち上がってくる。そういう体験を失くしたくないから、「好きだから批判する」という姿勢は貫きたい。そんな気持ちの拠り所として、舌鋒鋭かった若き渋谷陽一の記憶がある。

ロキノン・アンチの特徴は「昔は好きだった」がバレバレなところ

 音楽評論家・渋谷陽一には功罪の「罪」もある。
そもそも、渋谷は「ここのコード進行は~」という音楽的な批判ができなかった。音楽そのものへの理解が十分ではないため、曲について深く分析できず、自ずと批評は感覚的で曖昧なものになる。

 そうした弱点を克服しなかった彼の批評は、歌詞の解釈に終始したり、ロックを演ったり聴いたりする行いに知的な意味を持たせることまでで留まった。良い言い方をすれば彼の批評は徹頭徹尾、文学的だったのだろう。

 評論家の仕事を評論する気まんまんの面倒くさいリスナーにとって、渋谷陽一は「あるときは味方、あるときは敵」みたいな存在だった。そして、ある時点から彼と離れざるを得なかった読者はきっとたくさんいたはずだ。

 筆者は結果的に、ロキノン・アンチになった。でも、ロッキング・オンを叩いている人の特徴に「この人、昔はロッキング・オンにハマっていたんだろうな」とバレバレなところがあるのは否定しない。

 いろいろ言いたいことはある人だったけども、今はなにより彼の死を悼む。近親者のみで執り行われた葬儀では、弔事も2万字だったりしたのだろうか? 決して自分はファンではないと思っていたが、予想外にしんみりしていろいろ考えてしまった。

<TEXT/寺西ジャジューカ>

【寺西ジャジューカ】
1978年、東京都生まれ。2008年よりフリーライターとして活動中。
得意分野は、芸能、音楽、(昔の)プロレス、ドラマ評。『証言UWF 最後の真実』『証言UWF 完全崩壊の真実』『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実 』『証言 長州力 「革命戦士」の虚と実』(すべて宝島社)で執筆。
編集部おすすめ