アントニオ猪木が亡くなり、およそ3年が経とうとしている。後を追うようにハルク・ホーガンも逝ってしまった。
超人でも寿命には勝てない。
 WWF(現・WWE)でベルトをめぐる闘いを繰り広げたアンドレ・ザ・ジャイアント、ランディ・サベージ、ロディ・パイパー、アルティメット・ウォリアー、ジョン・テンタらも、もういない。先に向こうへ逝っている。ライバルたちと天国でレッスルマニアが開催できそうだ。

 日本のテレビでは各局がホーガン逝去のニュースを報じていたし、アメリカ国内のニュース番組はホーガンの訃報一色だったという。

 ホーガンの入場テーマは「リアル・アメリカン」だった。曲名どおり、スーパーマンやキャプテン・アメリカらと肩を並べるアメリカン・ウェイの象徴としてホーガンは存在した。そういえば、「リアル・アメリカン」を手掛けたギタリストであるリック・デリンジャーも5月に亡くなったばかりだった。

“アメリカン・ウェイの象徴”ハルク・ホーガンが逝去。「プロレ...の画像はこちら >>

猪木と同じ速さでレスリングする“華麗なる盗っ人”

「ラッカス」というバンドのベーシストとして活動するも、芽が出ずに挫折。次はプロレスラーになろうと日本人初のNWA世界ジュニアヘビー級チャンピオン、ヒロ・マツダの道場で指導を受けるようになった若き日のホーガン。マツダとのスパーリングでは脚を折られるなどかなりしごかれたが、なんとか食らいついてデビューにまでこぎつけた。ホーガンは真面目だった。

 1980年4月、新日本プロレスへ初来日。
この頃のホーガンは、はっきり言えばプロレスが下手だった。動きの固いムキムキの木偶の坊。もとはロックで成功を目指していた青年である。プロレスファンではなかった彼はプロレスの知識がまったくなく、プロレス特有の動きやコミュニケーションができなかったのだ。

 しかし、猪木に師事することで技術を吸収。手四つから相手のバックを取る動き、相手の脚を素早くたたんでデスロックに入る技術など、2メートルの大男にはとうてい不必要なことまで猪木と同じ速さでこなすようになった。新日陣営の助っ人として活躍していた時期、「こんなにうまくなりましたよ」とコーナーにいる猪木に見せるようにグラウンドの技術を次々と展開したものだった。実況の古舘伊知郎がホーガンを表現した「華麗なる盗っ人」という軽妙なアナウンスは、言い得て妙である。

“猪木舌出し失神事件”の一番の被害者はホーガン

 さらには、黒いトランクスにシルバーで「一番」の文字が入ったタイツは日本のファンの琴線をくすぐった。そういえば、リングネーム「ハルク・ホーガン」の由来であるテレビドラマ『超人ハルク』の主人公・ハルクも、実は善玉だった。

 全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンに去られた新日ファンは、ホーガンの成長を歓迎した。当時のホーガンの入場テーマ曲は、メイナード・ファーガソン演奏の『宇宙空母ギャラクティカ』のテーマ。金髪をなびかせて登場するホーガンと“登る太陽”を表現するようなきらびやかな曲調は、ホーガンのゴージャスな雰囲気と本当にマッチしていた。


 クライマックスは、猪木と相対した第1回IWGPの決勝(1983年)。当時、猪木の長年の悲願だったIWGP制覇を争う相手として、ホーガンは力不足と思われていた。しかし、かの有名な“猪木舌出し失神事件”で優勝を掴んだのはホーガンだった。ハンセンやアンドレらと比べてワンランク下に位置づけられていたホーガンは、この試合を機に彼らと同格かそれ以上の存在になっていった。

 今では、“猪木舌出し失神事件”の真相について多くの人が知るところだろう。この事件の一番の被害者は、リング上で狼狽していたあの日のホーガンである。真相を知った後、どういう気持ちになったかを当人に聞いてみたかった。しかし、それを決して口にしないのがホーガンという人でもある。

スタン・ハンセンが予言「あと1~2年したら……」

 1984年、WWFは全米侵攻作戦を開始。そのときの看板スターはホーガン。映画『ロッキー3』出演で爆発的に知名度を上げ、アントニオ猪木を失神葬でアップセットし、WWFでついにプロレス界のスーパースターになった。

 ここで重要なのは、ヒロ・マツダにしごかれ、猪木の薫陶のもとにブレイクした“日本の作品”がアメリカンドリームを成し遂げたという点だ。ホーガンこそ、最大最高の「日本帰りは出世する」である。


 加えて、タイミングも良かった。シルベスター・スタローン主演『ロッキー4』、アーノルド・シュワルツネッガー主演『コマンドー』、そして第1回レッスルマニア。これらはすべて、1985年の出来事だ。「トレーニング、ビタミン、神への祈り」というフレーズをよく口にしたホーガンだが、時代がマッチョを求めていた。

 以前、週刊プロレス元編集長のターザン山本に取材した際、氏は以下のようにホーガンを評していた。

「ホーガンが俺を呼ぶと、バックから『ロッキー3』の写真を10枚くらい出して『お前のマガジンに載せてくれ!』って言うんだよ。そのときに『こいつは絶対出世する』と思った。で、ハンセンが俺にささやくんですよ。『あと1~2年したら、俺が電話してもホーガンからこう言われるだろう。“マネージャーを通して俺に電話してくれ”って』。だからハンセン、そのときに読めてたんよ!」

 アメリカンプロレスの一つの頂点になったホーガン。アメリカの80年代のプロレスは、他のレスラーにとって「どれだけホーガンになれるか」の競争だったと言ってもいい。


ベストバウトはロック戦かアンドレ戦

 1996年、WWFのライバル団体・WCWで発足したユニット「nWo」。ホーガン、ケビン・ナッシュ、スコット・ホールの3人体制だった初期は特にカッコよかった。かつての人気は消えたと思っていた矢先に、nWoブームでホーガンの存在感は再燃した印象。

 ヒール転向後、2002年に開催された「レッスルマニア18」におけるロック戦は伝説だ。ヒールであるはずのホーガンがロックより声援を受け、一方のロックにはブーイングが飛ぶ予想外の展開に。空気を読んだ2人はフェイスチェンジし、途中からホーガンが黄・赤のコスチュームを着けていたベビーフェイスへと戻っていく名試合である。

 内容もさることながら、ホーガンがアメリカ国民からどれだけ支持されているかが露わとなった試合だった。ホーガンのベストバウトはこのロック戦か、「レッスルマニア3」(1987年)のアンドレ戦のどちらかになる気がする。

 WWF全米侵攻でベビーフェイスを、のちのnWoではヒールを極め、社会的ムーブメントを巻き起こしたホーガン。さらには、日米の両国でスターになっている。そんなレスラーは空前絶後、彼以外にはいない。

晩年にはいろいろあったけど……

 晩年のホーガンにはいろいろあった。性行為を撮ったビデオが流出して訴訟を起こしたり、娘の友人と不倫して家庭が壊れてしまったり……。
最も見たくなかったのは、娘と付き合っていた黒人の彼氏をニガー呼ばわりし、社会から猛バッシングされた一件である。

 しかし、nWo時代はジミ・ヘンドリックスの「ヴードゥー・チャイルド」を入場テーマに選んでいたホーガンだ。父親としての嫉妬が彼の口をすべらせ、言ってはいけないワードが出てしまった……のだと思いたい。

 最近、子どもの頃に見ていた有名人が毎日亡くなる。もし天国があるなら「現世よりあっちのプロレスのほうがおもしろいんじゃないか?」と思うこともある。

 そんなことを考えないように、我々は毎日をがんばって生きていくしかない。

<TEXT/寺西ジャジューカ>

【寺西ジャジューカ】
1978年、東京都生まれ。2008年よりフリーライターとして活動中。得意分野は、芸能、音楽、(昔の)プロレス、ドラマ評。『証言UWF 最後の真実』『証言UWF 完全崩壊の真実』『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実 』『証言 長州力 「革命戦士」の虚と実』(すべて宝島社)で執筆。
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