「父の車が家に近づいてくる音」で家族全員が怯えた
千崎さんが生まれたのは東京都。高校時代までを実家のある都内で過ごした。研究者の父親と専業主婦の母親、弟の4人暮らしだった。実家について振り返るとき、強く印象に残るのは父親の記憶だ。「直接的に暴力を振るわれたりしたことはないものの、今で言うフキハラ(不機嫌ハラスメント)というのでしょうか。気に入らないことがあると強くドアを閉めたり、物を投げるなどの行動が頻繁にありました。身体に危害を加えるなどの“わかりやすいエピソード”がないため、人に相談することもあまりしませんでした。どこかで、『でもきちんと育ててもらったんだよね?』『それって虐待なのかな?』という言葉を返されるのが怖かったのかもしれません。けれども、父の運転する車が家に近づいてくる音が聴こえてくると、家族全員が怯えるくらいには影響を受けていたと思います」
京大合格を報告した際、父の反応は…
父親は、千崎さんからみて「これを学歴コンプレックスと言わずして何を言うのか」と思えるほど、学歴に対するこだわりを持っていたという。「いまだに、毎年東大の入試問題を解いて、灘高の進学実績をチェックしていて、日能研の偏差値表を見るのが日課――みたいな人です。極めつけは、私が京大に受かったことを報告したときのことです。
当然、我が子に対してかける勉強の負荷も高度だった。
「中学受験のときは深夜3時くらいまで勉強する日が続きました。京大に入るとき、浪人時代は1日14時間は勉強したでしょうね。勉強そのものは楽しくて好きだったのですが、できないとペンを投げられたりするのが怖かったですね。今でもそうなのですが、どこかで大人の顔色を伺って、望むように行動してしまうクセがあるとは自覚しています」
母親からは「行動を監視されていた」
不機嫌さで家庭をコントロールし続けた父親。だが、ともに被害を受けた母親もまた、千崎さんにとって完全に心を許せる相手とは言い難い。「昔から母は私に厳しく、弟には甘かったと思います。のちに聞いた話では、『お父さんがあなたには甘かったから、バランスを取るために弟には優しくしてた』というのですが、父が私に甘かったとは思えなくて……。母は私の行動を監視するタイプの人で、高校生くらいまで私はGPSをつけられていたんです。大学入学後は京都で一人暮らしをしていましたが、夜8時くらいになると毎日電話がかかってきて、遊び歩こうものなら『警察に捜索してもらう!』とわめくので、ゆっくり羽を伸ばすことができませんでした」
母親が突如失踪。その顛末は…
だが突如として、千崎さんは監獄から解き放たれる。母親が失踪したのだ。その失踪劇の顛末もまた、千崎さんが孤独感を深める要因になった。「特に私も弟も家を出てからは、帰省するたびに、母は父の愚痴――なかには悪口に近いものもありました――を言っていました。それらは共感できるものが多いものの、一般的に愚痴を聞かされるほうも精神的につらいんですよね。そこで私は、『離婚したら?』と提案したんです。大学の友人などにいろいろ聞いて、別居期間が長いと協議離婚において有利に働くことを知りました。とはいえ、母が本当に家を飛び出すとは私も思っていませんでした。彼女は裕福な家に生まれ、父と結婚してからもほとんど働いたことはありません。私が知る限り、自分でお金を稼ぐ経験はしてこなかったはずです。
失踪の当日、父からの電話で母がいなくなったことを知りました。結局、母は1年近く失踪していたのですが、あとから聞いた話では、弟だけには失踪の計画について伝えていたらしいのです。私は散々愚痴を聞かされて、手を尽くして調べたのに、一切何も言わずにいなくなってしまいました。そのことは、いまだに非常にショックですね」
独立して生計を立てるために母親は働くことになり、千崎さんの行動を逐一監視する余裕がなくなった。あれほど悩まされた母親の介入から、気が抜けるほど一方的な理由によってあっけなく解放されたのだ。
忘れられない「元彼から言われた言葉」

「実家にいるときから、衝動的に叫びたくなったりしてしまうことがありました。しかしそれは家族といるストレスだろうと思っていたのです。けれども、一人暮らしをしてみても、家にいると一人で椅子を投げてしまったり、そうした衝動に歯止めが効かなかったんです」
これまでは周囲に知られぬよう、人知れず苦しんできた。だが心を許した相手に対して、「圧力ともいえる言葉で迫ってしまった場面もあったかもしれない」と千崎さんは振り返る。
「大学時代に将来を見据えて真剣に交際していた男性から、別れ際に言われた言葉が今でも残っているんです。その男性は非常に家族仲が良くて、家族それぞれの誕生日をお祝いし合う間柄でした。年に一度は家族全員で旅行に行き、家族写真もたくさんあって、当然、長期休みは実家に帰省するのを楽しみにしている。一方、私は極力帰りたくないわけですよね。
別れるときに、『家族仲が良いんだね、家族で旅行に行くなんてすごい、と言われるのがストレスでつらかった』と言われました。言葉そのものは攻撃性があるわけではないし、傷つけようと思って発したわけでもありません。けれども、私の生い立ちを知っている彼が、言下に『帰省なんてしないで、私と一緒にいてよ』というニュアンスを感じていたとしたら、きっといたたまれなかったでしょう。育った環境がまったく異なる人とは、将来を描けないのではないかと落ち込んでしまった出来事でもあります」
「医学部を受験しなかったこと」がわだかまりに
千崎さんは精神科を受診し、適応障害の診断を受けている。彼女は何に適応できなかったのか。「私は当初、医学部志望でした。しかし結果として、医学部は受験さえせずに農学部に入るんです。1日のかなりの時間を勉強に充てたにもかかわらず、挑戦さえしなかった。そのことが、自分のなかでわだかまりになっているのかもしれません。ある日、農学部の正門から一歩たりとも動けなくなってしまったんです。あれだけ努力した過去の自分を踏みにじる選択だったのではないかと思いました」
もう一度医師になる夢を追うかも

「自らの精神を立て直せたら、もう一度医師になる夢を追うかもしれません。私は自分でも嫌になるくらい真っ直ぐな理由で、医学部を志しました。人の命を救いたいんです。
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親に対して持つ感情は、複雑に絡まる糸。どれか一本だけで説明し尽くせることはない。父から向けられる無形の暴力に怯え、ともに耐えた母親の意識は、千崎さんには決して向かない。生死に関わる場面で弟のみを心配する母親の言葉を、彼女はどう飲み込んだのだろう。高い目標に向かって自らを律するその原動力を、家族から離れたところに置ける日がくるといい。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki