若い世代を中心に、「平成レトロブーム」が巻き起こっている。どこか懐かしく、温かみのある雰囲気が、若い世代にとっては新鮮な魅力として映っているのだ。

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こうしたなか、平成カルチャーにどっぷり浸かり、今もなおその影響を受け続けている人が、studio15株式会社の阿部 孝裕さん。見た目が、思いっきりギャル男!彼は何者なのか……。

元ビジュアル系バンドマン、そこからGoogleの広告営業を経て、現在は“ギャル男マーケター”として奮闘している。

平成カルチャーで思い出に残っていることや、あの頃と今で異なる世相について阿部さんに語ってもらった。

中学時代は丸刈り、「黒夢」に憧れて音楽の道へ

「肌が黒いコンプレックスが自信に変わった」ギャル男会社員が振り返る、令和の時代に足りないもの
阿部 孝裕
阿部さんは、日本のホラー映画『犬鳴村』の舞台となった福岡県久山町の出身。幼少期は自然に囲まれた生活を送ってきたという。

「中学生の頃は、今ではあまり見かけなくなった校則があって、男子は丸刈りにしなければならなかったんです。先生が指を髪に差し入れて、少しでも長ければ違反とされるほど厳しいものでした。そういう決まりが嫌だったんだと思いますが、特にやさぐれることもなく、普通に学校生活を送っていました」(阿部さん、以下同)

そんななか、転機になったのが高校生の頃だという。

1990年代中盤の頃、音楽番組「ミュージックステーション」にヴィジュアル系バンドの「黒夢」が出演し、その独特のかっこよさに魅了されたそうだ。

「化粧をして、髪を金色に染め上げた黒夢のスタイルは本当に衝撃的で、音楽をやってみたいと思った思った瞬間でした。音楽をやるためにバスケットボール部を1年生の夏合宿後に退部してアルバイトを始めました。その時は何も楽器が弾けなかったんですが、その頃に発売されていた小室哲哉さんプロデュースのシンセサイザーが、“ピアノを弾けなくても作曲できる”という触れ込みだったので、これなら自分にもできるかもと思ったんです」

そのシンセサイザーは値段が約18万円と高額だったため、阿部さんは高校3年生までアルバイトでコツコツ貯めて、ようやく購入したという。


その後、音響の専門学校に進学すると、同級生に誘われて「プロトタイプ」という名前のバンドを結成。音楽活動をスタートさせることに。しかも、コピーバンドではなく最初からオリジナル曲に挑戦していたため、自分ができる範囲でキーボードを使い、アレンジ・演奏を担当していたとのこと。それが途中から「ギターのほうがかっこいい」と感じるようになり、ギターへ転向したという。

上下関係の厳しいヴィジュアル系バンドの世界

しかし、活動開始から1~2年ほどでボーカルが体調を崩し、バンドは一度解散することになってしまう。そんななか、タイミングよく東京でライブをしていた同世代のバンドマンから声をかけられ、新たにバンドを組むことになったものの、メンバーとの折り合いがつかずに脱退を申し出たところ、その話が先輩たちにも広まってしまったという。

「その当時の福岡のヴィジュアル系バンドは厳しい上下関係が残っていて、ライブ後に先輩から呼び出しを食らいました。その結果、しばらくバンド活動ができなくなってしまったんです」

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ヴィジュアル系バンド「プロトタイプ」で音楽活動に励む阿部さん(写真右、本人提供)
こうしたなか、プロトタイプのボーカルが病みから復活し、バンド活動を再開させるために、阿部さんはライブハウスに顔が利くCDショップの店長を味方につけ、先輩バンドマンから咎められないように画策することに成功。

プロトタイプ復活後は、店長のサポートもあって、全国的に有名なビジュアル系バンドが福岡のライブに来る際、対バンに呼んでもらえる機会も増え、徐々に知名度を得ていく。その結果、福岡のビジュアル系シーンでは最大規模の200~300人収容のライブハウスを満員にできるほど集客力のあるバンドへ成長したという。

上京を機に“ギャル男文化”を知り、コンプレックスが自信に

その勢いのまま、2005年には思い切って上京し、バンド活動を本格化させた。実は東京へ拠点を移したことで、阿部さんの“コンプレックス”が逆に個性として認められるきっかけになった。

「自分はもともと肌が黒いことにコンプレックスを感じていたのもあって、白い肌が主流の世界に憧れてヴィジュアル系バンドをやっていました。ただ、どうしても自分だけ地黒なのがずっと気になっていたんです。
それが東京に出てきた途端、周囲から『すごくかっこいいですね』と言われるようになりました。

というのも、ちょうど2005年頃は“ギャル男文化”が全盛期で、ファッションも“アメカジ”が流行っていたりと、自分の見た目がむしろ好意的に受け止められたんです。福岡にはそのようなギャル男文化がなかったので、その違いにはとても驚きましたし、素直に嬉しかったですね」

生活費はコンビニで毎日12時間ほど働きながら工面し、その合間に練習とライブ活動をこなしていた阿部さんだったが、とにかくお金がなくて苦労したそうだ。

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バンドマン時代の阿部さん
「上京した時はドラムのメンバーと一緒に暮らしていたのですが、その彼がお金に困ってホストの仕事を始めたんですよ。ところが、ホストは時給制ではなく完全出来高制で、さらに遅刻すると罰金まで取られる仕組みだったため、月によっては給料がマイナスになることもありました。結果として、彼がお金を返せないどころか、僕が養わないといけないようになって。それが1年半ほど続いた末に、ついに限界だと感じて、最終的にはバンド自体も解散することになったんです」

モチベーションの源泉は「渋谷のクラブ」にあった

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Googleの広告営業を担当していた頃の阿部さん
「有名になる」と言って地元を出た以上、惨めな姿で帰るのはかっこ悪い——。

そう思った阿部さんは、正社員として東京で働くことを決意。そこからいろんなバイトをやったなかで、髪型やスケジュールも自由なのがコールセンターの業務だった。

最初はクレーム対応から始め、次第にテレアポもするようになったというが、ある時にGoogleの広告営業をする機会が訪れた。

Googleがまだ渋谷のセルリアンタワーに本社を構えていた頃、阿部さんは新宿の別の拠点で電話営業をしていた。その後、程なくして六本木ヒルズに本社移転するタイミングで、コールセンター部隊も六本木勤務になったという。

「当時の自分はパソコンも持っていませんでしたし、Google自体もほとんど使ったことがなく、正直よく分からないままの状態でした。


最初は電話で広告アカウントを開設してもらうまでが営業の仕事でしたが、途中から高いハードルの目標が設定されるようになりました。カニの通販やスキーツアー、年賀状など季節商品を扱う企業に電話営業していたのを覚えています」

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Google時代にチーム内売り上げ1位を達成した際の記念写真
その後、コールセンター部隊が解体され、新規開拓のチームが再編されると、阿部さんはGoogleの名刺を持って対面でも営業することになる。その頃は社員と一緒の売上目標が立てられ、リード(見込み顧客)も自分で探して営業することが求められた。さらに、「1回目は電話でヒアリングし、2回目で提案する」という枠組みの中で成果を出さなければならず、最初は数字を達成できなくて苦労したと阿部さんは振り返る。

そんななか、大変な仕事でも続けるための原動力になったのが渋谷のクラブに行くことだった。クラブが好きになったのは、ギャル男ブームを牽引した男性ファッション誌『men’s egg』が定期的に開催していたクラブイベント「メンズエッグナイト」に参加してから。

渋谷のアトムをはじめ、キャメロット、エイジア、ブエノスなど、週末にはほぼ毎週クラブへ通っていたという。

「2010年代のクラブは、今のフェスのように熱気があって、とても刺激的で面白い日々でした。特にDJの☆Taku Takahashiさんが好きで、彼が出演するイベントにはよく足を運んでいました。クラブが本当に好きだったので、チームのメンバーがモチベーションを落としている時には『大音量の音楽を聴けば元気になるから行こう!』と声をかけて、半ば強引にクラブに連れ出すこともあったほどです」

平成の時代は「下」を向かずに「前」を向いていた

現在はTikTokを中心としたショートムービーに特化した広告代理店のstudio15で働く阿部さん。直近で話題の「平成レトロブーム」について、どのように感じているのだろうか。当時と令和の今を対比して思うのが、平成の時代はいつも前を向いていた感覚だったと話す。


「平成のアイテムと言えば『写ルンです』や『ガラケー』、『プリクラ』、あとは『現金』とかもそうですけど、なんか“エモさ”がありますよね。どこか“不器用”だけど勢いがあって、突き抜けていたと思うんです。不完全さの中にあるエネルギーというか、アナログだけど等身大で肯定的な印象を持つものが多かった。ガラケー全盛の頃は視線もコンテンツも前向きだったなと感じています」

今の時代は多様性と言いつつも、SNSが発達したことによる閉塞感や生きづらさが顕在化している。人気になっていく有名人も、あえて顔を出さなかったり個性を尖らせたりすることで注目を浴びているが、「平成の時代は別に尖らなくても良かった」と阿部さんは言う。

「平成の頃は、安室奈美恵さんや浜崎あゆみさんのように、誰もが憧れる絶対的な存在がいましたよね。一方、今の有名人やインフルエンサーは、あえて個性を尖らせたり、ファンとの距離を縮めようとしたりする傾向が強く、その結果、受け取る側が少し疲れてしまっているのではないかと感じます。

だからこそ、最近は『やっぱり平成カルチャーの方が良かった』と思う人が増えているのかもしれません。当時は、周囲に過度に気を使わず、自分の好きなことに素直に向かっていける空気があって、他人からあれこれ言われることも今ほど多くなかった。やりたいことを自由にできる雰囲気が確かにあったと思います」

実は今、阿部さんの会社では「平成レトロ」をテーマにしたショートドラマを制作していて、再びあの時代の熱狂が迫りつつあることを感じているそうだ。

過去を単に懐かしむのではなく、平成の時代が持っていた前向きなエネルギーを今に活かす。平成の“突き抜けた自由さ”が、令和の時代に足りていないからこそ、もっと前を向けるような企画を作りたいと阿部さんは意気込んでいる。


<取材・文/古田島大介>

【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている
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