川を一本越えるだけで、介護職の給料は月2万円変わる——東京都の手当に、隣接県は戦々恐々としている。だが実際に現場を歩くと、聞こえてきたのは「流出」よりもはるかに深刻な悲鳴だった。
日本の介護行政に横たわる溝とは、いかなるものなのか。

働き手を奪い合う以前に、介護を選ぶ若者がいない

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 月1万円、勤続5年目までの介護職員なら2万円。小池都政が’24年度に始めた「居住支援特別手当」は、都内の事業所で働く介護職員とケアマネジャーの給与に、住む場所を問わず上乗せされる。

 介護従事者の賃金底上げは、施策として妥当だろう。だが、県境を越えるだけで年12万~24万円の差。隣接する県は、働き手を吸われて悲鳴を上げかねない。

「うちは5分も車を走らせれば、東京都です。向こうのほうが給料は高いから、みんな流れてしまうんじゃないかと心配で……」

 東京都に接する市の特別養護老人ホームの施設長は、こう危機感を漏らした。

 ’26年6月の埼玉県議会で大野元裕知事は、介護職の平均給与が「東京都に比べ約3万円低い」と認め、人材の流出を強く懸念した。

 しかし、埼玉県老人福祉施設協議会の役員たちに話を聞くと、意外な答えが返ってきた。

「埼玉で働く職員が都内の施設に次々と転職してしまうわけではない」というのだ。

「老人福祉施設は交通の便が悪い場所が多く、夜勤もある。特にベテランの職員は『給料が上がるなら遠くまで通おう』とはなりにくい。
就職も転職も近場で探すのが常で、給料も大事ですが、駐車場の近さや休み、人間関係のほうが重視される傾向があります」

 人が足りているわけではない。前出の役員が続ける。

「ハローワークに求人を出しても全然人が集まりません。若い人は、手当が出て設備も新しい都内の施設に行っているのかもしれません。職員の高齢化も進み、外国人材に頼る場面が増えています」

 介護労働安定センターの’25年度調査では、事業所の65.8%が「職員不足」と回答。同年には倒産と休廃業で800件超の介護事業者が消えた(東京商工リサーチ調べ)。つまり、県境で起きているのは単純な「東京への流出」ではない。限られた介護人材を自治体同士で奪い合わざるを得ないほど、業界全体の人手不足が深刻化しているのだ。

新卒人材は東京へ。給料を決める“公定価格”の壁

川を渡るだけで給与が月2万円違う…東京の「介護手当」に怯える隣県と、流出以前の“若手ゼロ”の危機
深刻な人手不足が続く介護現場。人材確保をめぐり、給与だけでなく休日や働きやすさも重要になっている  写真/Adobe Stock
 この現状を専門家はどう見るのか。淑徳大学総合福祉学部教授の結城康博氏は、手当で動くのは「これから介護に入る人」だと指摘する。

「ずっと働いている人はなかなか職場を変えませんが、これから介護に入る人は違います。
私のゼミ生も、市川や船橋、松戸に住む学生は千葉県内ではなく、江戸川区や葛飾区の事業所に就職する。20~30分移動するだけで、若手なら2万円違いますから。ただ、介護業界全体が人気がなく、就職の選択肢に入りづらい。だから新たに人が来ない。構造的な問題なんです」

 介護職員数は全国約212万人。前年からわずか487人増と、頭打ちだ。ならば給料を他産業並みに上げたいところだが、そう簡単ではない。結城氏が説明する。

「介護は公共サービスで、事業所の収入は国が定める介護報酬、いわば公定価格で決まります。国や自治体が動かない限り、改善しようがない分野なんです。事業所にできるのは、せいぜい経費を削って賃金に回すくらい。それも難しい。
今のままでは解決できず、老人は諦めるしかないというのが現実です」

 しかも介護報酬には「地域区分」と呼ばれる上乗せがあり、東京23区は20%、川口市は10%、三郷市は6%。公務員の地域手当に連動して決まる仕組みで、同じ仕事をしても、事業所に入るカネは県境で最初から違う。来年度の改定では、都県境の市の上乗せ率はさらに下がる見込みだ。「報酬が上がっても、地域区分を下げられたら何の意味もないんです」と前出の役員は憤る。

 待遇の厳しさは給料だけではない。在宅やケアマネの現場ほど深刻だ。

「在宅のヘルパーは圧倒的に足りず、80代が現役で働く老々介護状態。川口市では訪問先でケアマネが殺害される事件まで起き、補助金で防刃チョッキを買えるようになったほどです。しかもケアマネは経験を積んでなれる上位職なのに、加算は後回しで、特養の介護職より給料が低いこともある。『キャリアアップしても意味がない』と辞めたがる人も多いんです」

 働き方の負担も重い。日本医療労働組合連合会の調査では、2交替職場の65・3%が夜勤ワンオペだ。結城氏は「給料の次に効くのは休みの数」と念を押す。


「年間休日120日以上の事業所は、介護業界ではまだ3~4割。祝日が保証されていない職場のほうが多いんです。給与が難しいなら、働き方の改善が必要不可欠です。もちろん、人がいればの話ですが……」

自治体の努力にも限界あり。介護報酬引き上げが不可欠

 では、どうすればいいのか。結城氏は都の手当を「国がやらないなら自治体がやるべき」と評価する。

「高齢化の進む現代、介護サービスは住民にとって公民館や体育館を建てるより優先度の高いインフラです。東京を先駆けに、各自治体も箱物の予算を削って介護に回してほしい」

 実際、東京より前から独自の手当を出す自治体がある。千葉県流山市は’22年度から、介護福祉士とケアマネ、介護支援専門員に月9000円を上乗せしてきた。市の介護支援課は「処遇改善事業が採用の一助となっている」とし、対象職員の離職率はほかの職員より低く抑えられていると効果を語る。

 ただ、高齢化による職員の退職も増えており、市も「介護人材は限られており、根本的な解決にはなっていない」と認める。

 これは手当を出す東京都自身も同じだ。
東京都福祉局は本誌に「介護サービスは、介護報酬等によって運営されることが基本」と答え、手当は国が見直すまでの独自措置と位置づける。

 では、どうあるべきか。結城氏の結論はこうだ。

「介護報酬を上げて賃金を全産業並みにする。その責任は国にあります。ところが国は、この10年以上やる気がない。その間は自治体が穴埋めするしかありません。東京だから2万円出せるというのは浅はかな考えで、お金がなくても5000円でも3000円でもいい。県が動いているという事実そのものが、介護職員の士気を高めるのですから。つまり、最後は首長次第です」

 手当を出す東京も、流出を恐れた埼玉も、行き着く答えは国が決める介護報酬の引き上げだった。その財源は、税と保険料。問われているのは、介護にいくら払う覚悟があるか、だ。


【淑徳大学総合福祉学部教授・結城康博氏】
社会保障論・社会福祉学が専門。介護保険制度と介護人材の問題について、自治体の独自手当を評価する立場から発信を続ける

川を渡るだけで給与が月2万円違う…東京の「介護手当」に怯える隣県と、流出以前の“若手ゼロ”の危機
淑徳大学総合福祉学部教授・結城康博氏
取材・文/櫻井カズキ
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