◆報知プレミアムボクシング ▷後楽園ホールのヒーローたち:第21回前編 岡部繁
元日本バンタム級チャンピオンの岡部繁(セキ)は35年前に挑戦者の辰吉丈一郎(大阪帝拳)に3度倒され王座を失った。きらりと光るセンスの持ち主だったが、新チャンピオンになった辰吉が一気に世界へと駆け上がっていったその陰で、岡部は王座陥落から2戦を行い引退した。
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「おはようございます」。目尻を下げた園長が園児たちを受け入れる。東京都大田区にある大森保育園の朝の景色だ。元気な声に園児たちも笑顔になり、保育室へと入っていく。園長という肩書がすっかり板についた岡部にボクサーだったという面影はないに等しい。柔和な表情に柔らかな物腰。もし保護者たちに「昔、ボクサーで日本チャンピオンでした」と言ったとしても、誰も信じないだろう。
岡部が社会福祉法人「大洋社」に就職したのは今から28年前。現在は保育園事業部長で大森保育園園長だ。園児たちの成長を見守り、職員たちの長として保育園の運営にあたっている。
「入園式でビデオを撮っていたお母さんがいて、その子供の名前が丈一郎でした。お母さんが家に帰ってビデオを見せると、お父さんは『あっ、岡部繁がいる』と驚いたそうです。お父さんは辰吉さんの大ファンで名前はそこから取ったそうです。入園式の翌日にお母さんから言われて、大笑いしました。私も、ここで丈一郎と再会するとは…。改めて縁があるなと」
過去の肩書を知って態度が急変する親もいた。
「保護者の中には色々な方がいらして、何かと文句を言ってくる方もいます。父親の方でしたが、やたらとつっかかってくるモンスター的な方がいました。その方が家に帰って、私が元ボクサーで日本チャンピオンだったと分かると、翌日から急に接する態度が低姿勢になってしまったんです。不思議ですね」
岡部が日本バンタム級チャンピオンになったのは1990年2月。当時の王者クラッシャー三浦(国際)に判定勝ちして王座を獲得した。
辰吉に王座を奪われはしたが、所属ジム会長の関光徳は、きらりと光るセンスを持つ岡部には大きな期待を寄せていた。小学校時代は体が弱く「3分の1ぐらいは学校を休んでいた」というほど病弱だった。「ボクシングぐらいやらないと、自分で自分の身が守れない」と中学1年の終わりに、自宅近くのセキジムに通い始めた。1年ほど通うと千葉・木更津に引っ越したためボクシングはあきらめ、高校3年間はサーフィンに打ち込んだ。卒業時にはプロサーファーかプロボクサーの二択だったが「5歳下の弟もサーフィンをやっていて、高3の時の大会で自分は予選落ちなのに弟は決勝進出。こりゃだめだと思いボクシングを選びました」。
高校卒業後、半年間はアルバイトで資金をため、再びセキジムに入門した。
「この数年後に薬師寺さんと辰吉さんが統一戦(WBC世界バンタム級)で戦うなんて、まさかという感じ。あの2人とリングで試合をできたのは本当に幸せなこと」
連戦連勝はしていたが、考え方は甘かった。「実は新人王になるまでにロードワークをやったのは2日間だけ。走らなくても勝てたので、特に走る必要がなかった」とボクサーとして必須条件のスタミナには難があった。会長の関も見抜いていた。全日本新人王となり日本ランク入りしてA級ボクサー(8回戦以上)に昇格しても、「走らないから長いラウンドは無理」という理由から、B級(6回戦)の試合にしか出してもらえなかった。
全日本新人王、A級トーナメント、日本チャンピオンとすべてを獲得。周囲からは「世界挑戦」への期待が高まりつつある中での辰吉戦の敗北となった。
「あの試合は3ラウンドぐらいでこれなら勝てると思った。前半耐えて、後半勝負と。でも、4ラウンドのダウンで意識が吹っ飛びました。もう足がフニャフニャ。初めて足にきたのを覚えています。ダウンして立ち上がるときにロープをつかんで屈伸するんですが、あの屈伸はごまかしているだけ。ロープを持たないと立てない状態。
辰吉に打ちのめされ、無冠になった岡部だが、辞める気などみじんもなかった。辰吉戦後に2戦を行い、少しの間休んでいると、ジムの先輩から電話が入った。
「繁、ボクシング辞めるのか。お前のロッカーなくなっているぞ」
会長の関は岡部に限界を感じたのか、ジム内のロッカーを整理して強制的に引退を促した。納得はできないが、ここでは試合をすることはできない。岡部は英断を下すと、すぐに行動を起こした。(続く)
◆岡部 繁(おかべ・しげる)1968年3月15日、東京・大田区生まれ。木更津総合高卒業後に本格的にボクシングを始め、87年3月にプロデビュー。87年度全日本バンタム級新人王、B級、A級トーナメント優勝。90年2月に日本同級王座を獲得。戦績は17勝(8KO)3敗1分け。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。