◆報知プレミアムボクシング ▷後楽園ホールのヒーローたち第21回:後編 岡部繁
ジムから引退勧告を受けた岡部繁は、都内で知り合った米国人男性に米国での現役続行を勧められると、すぐに行動に移した。23歳、単身米コネチカット州に渡り、ボクシングを続ける決断をした。
渋々帰国するが、再び米国に戻りリングに上がる気でいた。商社に就職し、事務機器、宝石などの販売を手がけていたが、大事件が起きる。95年6月、岡部の後を追いプロボクサーになった弟の誠が、10回戦でKO負けした直後にリン
グ上で倒れた。救急搬送され診断結果は急性硬膜下血腫。「緊急手術して、医師からは99・9パーセント無理と言われました」と岡部は述懐する。
弟の誠も運動能力に恵まれた選手だった。
保育園とボクシング。岡部はどちらも楽しそうに話すが、ボクシングの話題には自然と熱が入る。しかし、大好きではあるが、ボクシングに直接関わろうとは思わない。思いは熱いままだが、「弟のことがありましたから。色々、考えさせられました」とアメリカで再びリングに上がる夢にも終止符を打った。
帰国後に勤めた商社が倒産する不運にも遭ったが、選手時代から世話になっている知人に仕事を手伝ってほしいと紹介されたのが現在の社会福祉法人「大洋社」だった。園長になって3年になるが、抜本的な改革で職員たちの生活にも余裕を持たせることに成功した。
「自分が園長になった時は、保育士さんたちの負担が多すぎて、全員がサービス残業の毎日。行事の用意があれば、日付が変わってしまうのは当たり前。保育士さんたちが書類作りに追われる毎日でしたが、思い切って行政に提出する書類以外はすべて辞めたんです。それまではあまりの激務に毎年職員が辞めていたんですが、その無駄を省いたことで、ここ2年間は20年ぶりぐらいに離職者がゼロになりました。無駄な書類を省いたことで、職員が定時に帰れるようにもなった。それまでは超ブラックな状態でした」
保育士不足をなくそうと、必死に考えた末の結論。「一気にしっかり変えないと、何も変わらない」と、渡米した時同様に思い切った決断だった。無駄な残業が減り職員たちも元気な顔で翌朝、保育園に姿を見せるようになったという。
私生活では「お父さんは頑張った」と思えるほど多忙な生活を送ってきた。妻との間に2人の娘に恵まれたが「41歳の時に離婚しました。
20代は後楽園ホールで輝き、時を経て活躍の舞台は四角いリングとは似ても似つかない保育園となった。「ボクシングってつらいことばかり。とくに減量。
今注目のボクサーは3階級制覇のWBC世界バンタム級王者・中谷潤人(M・T)だという。「右手を伸ばして相手を中に入れないようにしておいて、左をズバッと突き刺す。相手にとってはやりづらいでしょう。あの選手は強い」とまたも元ボクサーに戻り熱い口調を響かせる。岡部と会って感じたことは、過去の肩書に頼らず、おごらず、話す相手と必ず同じ目線になるということ。一日一日を全力投球してきたからこその現在の姿なのだろうと、感じる。そして今があるのも、あの時、敗れた相手がいたからだという。
「辰吉さんには本当に感謝しています。辰吉さんと試合をしていなければ、こんなに名前も世の中に出なかったし、色々なメディアから取材を受けることもなかったと思います。ありがたいです」
浪速のジョーへの感謝が、園長の人柄を際立たせた。
(近藤 英一)=敬称略、おわり
◆岡部 繁(おかべ・しげる)1968年3月15日、東京・大田区生まれ。千葉・木更津総合高卒業後に本格的にボクシングを始め、87年3月にプロデビュー。87年度全日本バンタム級新人王、B級、A級トーナメント優勝。90年2月に日本同級王座を獲得。戦績は17勝(8KO)3敗1分け。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。現在は観葉植物に凝っている。