初代タイガーマスクの佐山サトル(67)と前田日明(66)が12日に後楽園ホールで行われた、4月21日に90歳で亡くなった“過激な仕掛人”新間寿さんの追悼興行で歴史的な和解を果たした。

 第4試合後の追悼セレモニーで新間さんが1984年4月に旗揚げしたユニバーサルプロレス(第一次UWF)に所属した前田日明、藤原喜明がサプライズ登場を果たした。

大歓声に包まれたリングで佐山は今後、前田と共同して新たなプロレスラーを養成することを満員のファンに誓った。

 佐山は1975年に高校を中退し新日本プロレスに入門した。この時、入門テストの受検を許可したのが新間さんだった。そして1981年4月23日に蔵前国技館で誕生した「タイガーマスク」への変身を新間さんがプロデュースし日本中が熱狂する国民的アイドルレスラーとなった。83年8月に電撃引退するが84年7月に「第一次UWF」で復帰。85年9月の退団後は、総合格闘技「シューティング」を創始。後に「修斗」と改名し総合格闘技の開祖となった。

 前田は、出身地の大阪で空手を学んでいた18歳だった1977年に佐山からの紹介を受けた新間さんがプロレス入りをスカウトした。以後、83年に「ヨーロッパヘビー級王座」を奪取し第1回IWGPに欧州代表で出場しメインイベンターとなった。84年に第一次UWFへ移籍し、その後、「新日本プロレス」「新生UWF」「リングス」で幾多の激闘を展開し「格闘王」と呼ばれるカリスマとなった。

 プロレスと格闘技の発展、進化に絶大な貢献をした2人。新日本プロレスの若手時代は兄弟のように仲が良かったが第一次UWF時代の85年9月2日の大阪・高石市の臨海スポーツセンター大会で不穏試合を起こし決裂した。

その後、雑誌での対談、リング上で顔を合わせることはあったが、確執は根深く2012年8月26日の「ドラディション」大阪・松下IMPホール大会を最後に一切、会うことはなかった。

 

 多くのプロレス関係者、私を含むマスコミも和解を望みながらも「修復は不可能」と思い込んでいた2人の確執。和解へ導いたのが新間さんだった。

 前田自身が12日の後楽園ホールで明かした証言によると昨年4月28日に都内で開催したトークイベントに新間さんがゲスト出演した。その際、新間さんから佐山との和解を促されたという。しかし、会うことはなく時は流れた。

 そして今年4月21日。新間さんの長男・寿恒さんから「オヤジが会いたがっています」と連絡を受け、昼間、新間さんの自宅を前田は見舞いに訪れた。新日本プロレス時代の思い出話などを語り合い自宅を後にした数時間後、新間さんは亡くなった。前田は、新間さんが最後に会ったレスラーとなった。

 そして、4月29日に都内で営まれた新間さんの通夜に前田は参列した。10年あまり会うことはなかった佐山との再会を寿恒さんから促され意を決して佐山がいる部屋のドアを開けた。

その時、前田には佐山の横に「新間さんが立っていたんですよ」と新間さんの姿が見えたという。すべては新間さんが導いた縁だと悟った前田は、メニエール病などと闘病する佐山へ医師を紹介することを約束した。

 果たして、前田は「言うだけ番長」ではなかった。約束通り医師を紹介し佐山は診察を受け薬を処方された。一時は歩くことも話すこともできなかった佐山だったがその結果、劇的に症状は改善され後楽園ホールのリングへ自力で歩行できるまでに回復した。

 こうして和解した2人は、新間さんの追悼興行を前に電話で1時間ほど会話し、新たなプロレスラーを養成するプランに意気投合した。

 前田は「18歳のあの時にもし新間さんと出会わなければ自分の人生はどうなっていたか…」と万感を込めて新間さんへの感謝を明かす。佐山は新間さんの告別式での弔辞で「プロレス愛、非常に強い方でした。新間さんの温かい優しい心、プロレスに対する愛情、今そこで眠ってらっしゃる新間さん、僕もそこにで頑張ってみようと思います」と誓った。

 佐山と前田。歴史的な和解に至る経緯をたどると、それはまさに新間さんによる人生最後の「仕掛け」だった。2人が新たなレスラーを育成すれば、新間さんの「過激な仕掛け」はこれからも続いていく。

この物語へさらに思いをはせると新間さんが命をかけプロデュースし佐山と前田を育てたアントニオ猪木さんの偉大さを改めて感じざるを得ない。

 新間さんは生前、繰り返し「ファンが喜ぶことを自分の喜びとする」と自らの信条を語っていた。2人の和解に今、ファンは歓喜し感動している「プロレスは愛。愛とはお互いがお互いを思い、寄り添い、慈しみこと」と明かしていた新間さん。前田が佐山の回復を願う行動は、愛そのものだった。どんな確執も「愛」があれば、解かすことも教えてくれた。プロレスには人生が詰まっている。

(福留 崇広)

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