音楽評論家で作詞家の湯川れい子氏が20日、都内で行われた日本記者クラブシリーズ企画「戦後80年を問う(11)」に登壇した。
第二次世界大戦の終戦から80年を迎えるのを前に、戦後の日本を振り返り、今後の指路を問う同企画。
11回目を迎えた今回は、湯川氏が登壇。数々の名曲を手掛け、評論家として活動しているが、自身の活動を「推し活」と表現した。「これまで、原稿に書いたり解説をする仕事をしてきましたが、自分の好きな物しか評価してこなかったし、語ってこなかった。それは今でも変わらないです」とこれまでの人生や活動の日々の幸せをかみしめた。
そんな湯川氏の原点は幼少期からの環境にあった。物心ついたときはまだ戦争の激しさを感じることなく、平和に過ごしていたという。「父は海軍に勤めていて、社交ダンスなども行われていたため、両親はよくダンスをしていました。私も父の膝に抱きついて一緒に踊っていたので、私の家は音楽であふれていました。それが私の原点になっていると思います」と回想した。
しかし、数年後に戦争が激化。
それでも音楽が湯川の元から離れることは無かった。「まだ東京に住んでいた頃、生前の兄が、東京大空襲に備えて3日かけて防空壕(ぼうくうごう)を掘ってくれました。作業中に吹いていた口笛が気になり、何の曲か聞いてみると『僕が作った歌だよ』と教えてくれました。その歌が脳裏から離れなかったんです」と当時から音楽が人々の生活の一部だったと明かした。
戦争が明けたある日。流れてきた米軍の放送を聴いていると、ある曲が流れてきた。自然とメロディーを口ずさんでいて「どうして私はこの歌を知っているんだろう」と疑問に感じた。その曲が兄が吹いていた口笛の曲と分かり、なぜ「僕が作った」とうそをついたのかと思ったが、後にその歌がアメリカの「スリーピー・ラグーン」(ハリー・ジェイムス)だと判明。
この出来事をきっかけにアメリカの楽曲に興味を持った湯川氏。ジャズだけでなくクラシック、ホップスなど幅広いジャンルに精通するようになった。59年に編集者にジャズに関する初めての投稿を行ったところ大きな反響を呼び、音楽評論家としてデビュー。その後は女性目線の恋愛を歌った「六本木心中」や「ああ無情」などを手掛けるなど、作詞家としても活躍した。
昭和・平成・令和と渡り歩いてきた湯川氏は現代の音楽業界をこう分析した。「(あらゆる面で)可能性がまだまだあると思います。若いアーティストが海外で活躍していますし、魅力のあるアーティストをどう輩出していくかが大切になると思います。音楽プロデューサーや業界人が考えていかないと思います」。