小学生の時から長嶋茂雄さん(享年89)のファンだという演出家のテリー伊藤さん(75)は大学時代、入院中にラジオで聴いた長嶋さんのホームランに人生を立て直す勇気をもらったという。テリーさんの企てた“ユニホーム欲しい欲しい作戦”にも快く乗ってくれたミスター。

テリーさんはその生きざまを手本にして、人生を歩んでいる。(瀬戸 花音)

 東京・築地の町中を、小学生たちが駆けていく。草野球でかいた汗を流しに、向かう先は銭湯。駆けっこで1等賞を取った者だけが「3」番の靴箱を使うことができた。「俺は足が遅かったからさ、全然取れなかったんだよ。いいなあってね」

 1968年9月18日、大学1年生のテリーさんは、病院のベッドの上にいた。学生運動で仲間が投げた石が左目に当たり、入院を余儀なくされた。医者は「もう治らないかもね」と淡々と言った。「これじゃあ人生どうすんだよ」。絶望の暗闇の中で、ラジオ中継に耳を澄ませた。阪神・巨人戦(甲子園)。3番・王貞治が死球を受け、大乱闘。

そこでテリーさんはふと、願をかけた。「『今、俺こうやって人生投げやりになってるんだけども、次のミスターが打ってくれたら俺も人生もう一回頑張ろう』と思ったんです」。4番・長嶋の打った打球は、レフトスタンドに吸い込まれた。3ランホームラン。「布団の中で、涙が止まらなかったです。俺もこんなところですねてたってしょうがないなって」

 念願の初対面を果たしたのは、大学を出て、テレビの仕事を始めた頃だ。長嶋さんは監督に就任していた。日テレの特集番組の取材で、ノックを受けることに。本気の4球だった。「飛んでくる球が速いんですよ。プロだったら捕れるんだろうけど、僕は素人だし、全然捕れないの。そしたら、怒っちゃって。

『なんで捕れないんだ!』って。ミスターはずっと本気だったんですよね。僕は『わあ、ミスターに怒られてる』ってうれしくなっちゃった(笑)」

 初対面の後、テレビ番組の取材を通じて親交を重ねた。2000年、どうしても長嶋さんのユニホームが欲しかったテリーさんはある計画を企てた。球場に持参したのは手書きの“誓約書”。テリーさんにユニホームを「必ずあげる」と書かれた誓約書に、長嶋さんのサインをせがんだ。「ほんとにずうずうしいよね(笑)。でも、ミスターはニコニコ笑って『いいよ~、いいよ~』ってサインしてくれた。球団関係者たちは慌てたけどさ」。そして、その年、巨人が日本一となり、胴上げで宙を舞った後、テリーさんのもとに約束の背番号「3」のユニホーム一式が届いた。

 13年のある日、当時の安倍晋三首相(故人)と食事を共にしたテリーさんは首相に進言した。「僕は国民栄誉賞をもらう長嶋さんが見たいです。

亡くなってからもらう方もいる。けれど、生きている長嶋さんにあげなきゃ、長嶋さんの笑顔は見られないんですよ」。安倍氏はうなずき、その年のうちに受賞が発表された。セレモニーで打席に立った長嶋さんを会場で見守ったテリーさんは叫んだ。「打て! 長嶋!」。あえて、敬称は付けなかった。「バッターボックスに立った選手への敬意」だった。

 7年ほど前に対談をした際、帰り際にエレベーターへ向かう廊下を並んで歩いた。長嶋さんはテリーさんを見て言った。「ありがとう。歩調を合わせてくれて」。「僕の方が長嶋さんに今まで多くのものをもらっているのに、なんでそんなこと言うんですかと思った」。

あふれそうな涙を必死にこらえたテリーさんの横で、ニコニコほほ笑み続けてくれたという。

 自宅の表札は長嶋さんに頼んで書いてもらった「いとう」の文字。「長嶋さんは04年に倒れてから今まで、どうやって生きるということに対して闘っていくか、その生きざまを見せ続けてくれたんですよ。僕ももう75歳だから、いつ倒れるかも分からない。だけど、そのときにミスターのように生きたい、とそう思える姿を見せてくれた。僕もミスターから学んだように生きていきたいと思っています」。土汚れのついたままの背番号「3」のユニホームを掲げたテリーさんの顔は輝いていた。「3」番の靴箱を取り合っていたあの頃のままに。

 ◆テリー伊藤 本名・伊藤輝夫。1949年12月27日、東京・築地生まれ。75歳。早実中高から日大経済学部卒。

テレビプロデューサーとして「天才・たけしの元気が出るテレビ!」(日テレ系)、「ねるとん紅鯨団」(フジ系)など人気番組を数多く手がける。執筆活動のほかテレビ、ラジオなど幅広く活躍している。

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