報知プレミアムボクシング「激闘の記憶」第4回は、元WBC世界バンタム級チャンピオン辰吉丈一郎(大阪帝拳)の奇跡の王座返り咲きを取り上げます。絶大な人気を誇る辰吉も世界戦3連敗となり、後がない状態となった1997年11月22日、大阪城ホールでWBC世界同級王者シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑戦。

戦前の予想では圧倒的不利の中、16戦全勝の王者と序盤から激しく打ち合う展開に、会場のファンは開始直後から立ち上がりヒートアップ。7回TKO勝ちする辰吉だが、その直前にはピンチとなるシーンもあり、激闘の末に3年ぶりの王座を手にした歴史に残る一戦となった。

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 辰吉の3年ぶり王座返り咲きは、ファンの心に突き刺さる感動的なものだった。この結果を期待はしたが、予想をした人は少なかったはずだ。だからこそ、衝撃的であり、みなが涙した。

 決着は7回だった。リング中央で放った左ボディーが決め手となった。シリモンコンが苦痛に顔をゆがめキャンバスに崩れ落ちる。何とか立ち上がったが、それだけで精いっぱいだった。辰吉は再びボディーを打ち込み、続けて連打。ロープに飛ばされ棒立ちになった王者の前にレフェリーが割って入り試合をストップした。館内は騒然を通り越し、恐ろしいほどヒートアップ。

熱狂したファンは辰吉を目当てにリングに殺到。収拾がつかなくなった歓喜のリングで、新チャンピオンはファンに感謝した。「自分のわがままでボクシングを続けてきて、ファンのためにボクシングをやっているのではないのに、いつも応援してくれてありがとうございます」。涙声の辰吉に、リングを囲んだファンたちも涙した。

 待っていたヒーローが帰ってきた。大阪城ホールは試合前からそんな雰囲気に包まれていた。入場の時はファンが通路に押し寄せ、もみくちゃになりながらリングへと向かった。相手は上昇気流に乗る20歳の無敗王者(試合時は16戦全勝6KO)という設定に、戦前の予想は圧倒的不利の中、試合開始のゴングが鳴った。序盤から緊迫した攻防が繰り広げられた。辰吉がジャブを中心に左右のフックを打てば、シリモンコンも左右の強打を返してくる展開となった。

 そして最初に試合が動いたのは5回だ。辰吉は客席向かって両手をかざし「この回、いくぞ」という気持ちをファンへ届けた。

その予告通りに激しい打ち合いとなり、左ボディーアッパーを打ち込む。次の瞬間、王者は苦痛のあまり体がくの字になる。さらに右を打ち抜くとタイ人王者は弱々しく背中からダウンした。ここで終わりかと思わせたが、シリモンコンも粘る。6回には辰吉の足が止まりかけ、前の回のダウンを忘れさせるほどの打ち合いに持ち込む。7回もどちらが先に決定打を打ち込むかというまさにスリリングな展開の中、辰吉が左を王者のボディーに突き刺し、3度目の王座返り咲きを実現した。

 約3年前の94年12月。薬師寺保栄(松田)とのWBC世界バンタム級王座統一戦に判定負け。96年3月には1階級ウェートを上げWBC世界スーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑戦したが11回TKO負け。1年1か月後の再戦でも判定負けし、世界挑戦3連敗。もう後がない崖っぷちの状態でのシリモンコン戦。「勝つのは奇跡に近い」と言う声が大半を占める中での「奇跡の復活劇」となった。

 王座獲得に成功した辰吉は2度の防衛に成功した後、98年12月のV3戦でウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に6回KOで敗れ王座陥落。8か月後、大阪ドームでの再戦でも7回TKOで敗れ、世界戦はこの試合が最後となった。現役にこだわる辰吉は55歳になった今でも、トレーニングを欠かさないという。その一方で、辰吉が世界戦のリングで抱きかかえていた次男の寿以輝も今では29歳。日本ランカーとなり、地域タイトルへの挑戦も経験していることを考えれば、長い年月を感じさせる。

 97年に網膜剥離(はくり)となり事実上の引退となりながら、特例という日本のリングに戻ってきた辰吉だが、特例を認めたさせたのは、ファンの絶大なる後押しがあったからだろう。そして今でも思う。あの大阪城ホールの空気は、何十年とボクシング会場に足を運んだ中でも、トップクラスの熱量を感じた試合だったということを。

 ◆辰吉丈一郎(たつよし・じょういちろう) 1970年5月15日、岡山県倉敷市出身。17歳で全日本社会人選手権出優勝。アマ戦績は18勝(18KO・RSC)1敗。89年9月にプロデビュー。

4戦目で日本バンタム級王座を獲得(当時の日本最短タイ記録)。91年9月にグレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOで下し、当時の日本最短記録となる8戦目(現在は5戦が最短)でWBC世界同級王座を獲得。プロ戦績は20勝(14KO)7敗1分け。身長165センチの右ボクサーファイター。 

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