救援投手として名をはせた元巨人、西武の鹿取義隆さん(68)は、長嶋茂雄さん(享年89)の第2次政権の99、00年に投手コーチとして仕えた。「怒られた記憶がほとんど」と、勝負に対する厳しさを味わった2年間だった。

(取材・構成=湯浅 佳典)

 第1次長嶋政権(1975~80年)のラストの2年だけ、鹿取は投手として指揮官の下でプレーした。

 「たいしたピッチャーじゃなかった。ただ肩ができあがるのが早いというか、マウンドでの8球で大丈夫だったせいか、先発が初回から乱調になって、監督がカリカリしてしまい、ブルペンの準備もできていない時に、『誰かいないのか?』と、ベンチにいた僕が急に登板したことが2度ほどありましたね」

 “便利屋”の役割で居場所をつかんだ。王貞治監督時代には連投も辞さず鹿取―角―サンチェという勝利の方程式を形成、87年の優勝に貢献した。西武への移籍を経て、長嶋さんの元に戻ってきたのが99年、1軍の投手コーチとしてだった。

 「いやあ、大変だった記憶ばかりですね。毎試合、明日の試合に投げる投手を先発、リリーフに分けて監督に伝えるんです。前任の池谷(公二郎)さんが口頭でやっていて、何度か監督が間違えることがあったんで、僕の時には紙に書いて渡すようになりました。試合中もそのメモを見て交代を告げていたので、間違いはなかった。でも、ある甲子園での試合。朝、5時半に『起きてるか?』と電話が。起きてるわけはないんだけれど、すぐに部屋に行ったら『きょうのピッチャーは誰だ?』って。

机の上にその紙は置いてあったんで、『その紙の通りです』と答えたら、さすがに悪いと思ったんでしょうかね。『うん、そうだな。この投手でゲームがどうなるか、シミュレーションをしよう、と思ってな』ということになりました」

 勝負は時の運。勝ったり負けたりの毎日が続く。

 「負けた時は、本当に厳しかった。部屋に呼ばれて『なんで打たれるんだ! 対策はどうしてるんだ』って必ず怒られました。ある試合でガルベスがKOされた時は『顔を見るのも嫌だ。2軍に落とせ!』って、すごい剣幕(けんまく)。抹消したら一度ローテを外れますよね。それは困るから何とか監督をなだめました。で、中6日で好投したんですよ。『うん、ナイスピッチングだ!』とニッコリです」

 ほめられることは、まずなかった。

しかし、ついにその日がやってきた。ON対決となった2000年、ダイエーとの日本シリーズ。2勝2敗で迎えた第5戦。先発に高橋尚成を送った。

 「監督はメイがいいと言われたんですが、ヒサが春のダイエーとのオープン戦で抑えていたんです。交流戦もない時代。ヒサのチェンジアップが生きると思ったんで強く押し通しました」

 結果はシリーズ初登板ながら2安打無四球の完封勝利。

 「試合後に全員と握手をしますよね。監督はシーズン中を含めて、いつも軽くスッという感じの握手なんですが、この時だけは、僕の手をギュッと握ってくれました。言葉はなかったけれど、『よくやった』という意味だと。つらかったことも全部、報われた感じで、今でもその感触は手に残っています」

 勝負に対しての厳しさは、他でも感じたことがある。

 「僕らとお遊びのゴルフをやっても、パットの時なんか、本当に真剣ですごい集中力。

見事に決めたら帽子を投げるほど喜ぶしね」 鹿取さんが巨人のGMを務めていた17、18年。長嶋さんは脳梗塞(こうそく)から復帰し、月に1度のペースで東京Dに観戦に訪れていた。一塁側ベンチ近くのブースで共に観戦した時。

 「選手に声をかけたり、アドバイスをしたり。走者が三塁を回るときには『行け行け、回れ回れ!』って。目はギラギラ輝いているし、監督時代と同じ顔でしたね。ゲームに入り込んで、野球に対する情熱は全く衰えていなかった。それを隣で見られた僕は幸せ者でした」

 ◆鹿取 義隆(かとり・よしたか)1957年3月10日、高知・香美市生まれ。68歳。高知商から明大に進み、78年ドラフト外で巨人入団。90年に西武に移籍し同年、最優秀救援投手。97年に引退。

通算755試合で91勝46敗131セーブ、防御率2.76。98年巨人2軍、99~00年は1軍コーチ。右投右打。

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