大学野球はシーズンオフを迎え、今年も数多くの4年生部員が愛着のあるユニホームに別れを告げた。熱き思いを胸に、大学野球で青春を燃やしたのは選手だけではない。

首都大学野球連盟の学生委員長を務めた東海大の根本慎太郎マネジャー(4年=茨城)に、高2から計6年間に及んだ、自身のマネジャー生活を振り返ってもらった。【前後編の前編】(編集委員・加藤 弘士)

 野球には興味がない少年時代だった。キャッチボールも別に好きじゃなかった。そんな根本の人生が激変したのは、茨城中の1年から2年に進級する2017年3月に行われたWBCがきっかけだ。たまたま地上波のテレビで見ていると、日の丸を背負い奮闘するナインに心を奪われた。

 「バット1本、ボール1個で東京ドームの満員のファンを魅了させる-。野球って、本当にすごいなと思ったんです。侍ジャパンには巨人の小林誠司捕手がいて、『世界のKOBAYASHI』と呼ばれる活躍ぶりで、大ファンになりました。投手の心情をくみ取って、試合の流れを変える。すごい選手だなって」

 茨城・高萩市内の自宅から水戸市内の同校までJR常磐線で電車通学。硬式テニス部員だった根本は両親に頼み込み、休日に東京ドームへ連れて行ってもらった。初めて見るプロ野球だった。

 「WBCで活躍した選手を生で見たいなって。それで巨人戦に行ったんです。試合前練習を見学していたら、菅野智之投手が近くに来てくれて。『サイン下さい!』って、ボールにサインをして頂いて。オーラ、ありましたね。この前までWBCで投げていた選手が、こんな近くにいるんだって」

 根本は野球の虜(とりこ)になった。「月刊ジャイアンツ」を定期購読し、選手名鑑を眺め、育成選手も含めて全て覚えた。巨人のファンクラブに入り、試合がない日でも家族3人で東京ドームへ出かけた。グッズショップにいるだけで、幸せだった。茨城高2年に進級する2020年春。大きな決断をした。あまりに野球が好きすぎて、硬式野球部への入部を決断したのだ。

 「選手では無理だから、マネジャーでお願いしますと。部内では『何でも屋』です。練習の補助に、データ分析。練習試合後に打球傾向をつけたり、選手の成績を出したり。同学年には女子マネジャーがすでに2人いたんですが、自分はとにかく『野球が好き』というのを前面に出そうと。苦しい練習を頑張っている選手の士気を何とか上げたくて、先回りして冷たい水の手配を工夫したりしていました」

 2021年、高校最後の夏を前にした、太田一での練習試合での出来事だ。太田一の野球部OBで地元の旅行会社「ビィーフリー石塚観光」の綿引薫社長が、働く根本の姿を見て、茨城高の岡部将也監督に、こんな声をかけたのだ。

 「男子でも、マネジャーをやっているんだね」

 「彼は巨人が大好きで、どうしても野球に関わりたくて、マネジャーをやっているんですよ」

 「だったら、進路に東海大はどうかな。僕の友人が東海大野球部出身で、この前まで巨人のスカウト部長を務めていたんだよ」

 その友人とは、後に東海大の監督を務める長谷川国利さんだった。東海大といえば現在、首都大学野球リーグ優勝76度を誇る大学球界の名門。多くのプロ選手を輩出していることでも有名だ。強豪大学のマネジャー-。

夢のような世界。心が熱くなるのが分かった。

 夏の茨城大会。茨城高は2勝を挙げ、3回戦まで勝ち進んだ。1、2回戦は女子マネジャーがベンチ入りし、3回戦は根本が記録員を務めたが、常磐大高に0-8で7回コールド負け。だが灼熱の太陽の下、幸福を感じるひと時だった。

 「もっとみんなと野球がやりたかったという気持ちと、ノーブルホーム水戸のベンチに入れて、野球ができる幸せを感じていました。あとは…喪失感ですね」

 受験勉強に取り組む中でも、野球への情熱は消えなかった。

 「頭の中がもう、ずっと野球で。10月ぐらいに、やっぱり東海大しかないなって。野球部に入って、マネジャーがやりたいと。受験することにしたんです」

 合格後、東海大野球部にマネジャー志望である旨を伝え、面接に出かけた。

綿引さんから長谷川さんを通じて、当時の監督だった井尻陽久さんに「熱い青年が行く」との連絡が届いていた。面接では熱意を伝え、入部を認められた。

 強豪大学野球部でのマネジャー生活が始まった。

【後編「競技経験ゼロから完走した名門大野球部でのマネジャー生活 学生主体のリーグ運営 胸に響いた原辰徳さんの金言」に続く】

編集部おすすめ