巨人のドラフト1位・竹丸和幸投手(23)=鷺宮製作所=の連載最終回は、高校時代の恩師との出会い。崇徳ではまだ体重50キロ台と小柄だったが、松中信彦斎藤佑樹らを育てた名将・応武篤良監督(享年64)は、早くから竹丸の才能を見いだしていた。

 ドラフト1位指名を受けた竹丸は、社会人NO1左腕の評価を受けるまでになった要因を問われ、迷いなく言った。「一番は野球をやめなかった。本当にそれに尽きると思います」。

 崇徳では2年秋に初めてベンチ入りしたが、3年夏も背番号は10。「高校で野球を終わろうと思っていたけど、当時の監督に『野球を続けて大学でも野球をやってみろ!』と言われて、それでここまで来た」。“引退”を踏みとどまらせてくれたのは、今は亡き応武監督だった。

 高校2年夏までの監督で、応武さんの監督就任後は部長を務めた藤本誠・現監督は「竹丸はプロに行きたいというのは全くなかったと思う」と振り返る。当時は体重50キロ台。線が細く目立つ存在ではなかったが、応武さんは体の使い方や非凡なコントロールを持つ竹丸の才能を買っていた。

 応武さんは新日鉄君津の監督として平成唯一の3冠王となった松中信彦、球界屈指のサブマリンとなった渡辺俊介を育て、2005年には早大監督に就任。斎藤佑樹らを指導して6度の優勝に導いた。アマ球界屈指の名将は、19年に行われた大阪桐蔭との招待試合で先発に抜てきするなど、自信のない竹丸に貴重な経験を積ませていった。

 当時バッテリーを組んでいた池上歩さん(24)は、「応武さんは『お前らの代で一番プロに近いのは竹丸だ!』とその頃から言っていた」と明かす。藤本監督もまた、「竹丸をいいときにつかって自信をつけてくれたと思う。応武さんが生きていたら、今の竹丸の姿にびっくりするんじゃないかな、と思いますけどね」と感慨深げに語った。才能を見逃さず、鼓舞し、野球を続けるよう背中を押してくれた名将の存在があったからこそ、大学、社会人での飛躍があった。たくましくなってプロの世界に飛び込む竹丸を、恩師も天国で見守っている。(水上 智恵)=終わり=

 ◆竹丸 和幸(たけまる・かずゆき)2002年2月26日、広島市生まれ。23歳。崇徳では2年秋に初めてベンチ入り。3年夏は背番号10で4回戦の広島国際学院戦に先発するも、4回1失点で敗退。城西大では2年春に2部リーグデビュー。4年秋に1部に昇格して3勝1敗、防御率1・52(リーグ2位)の成績を残す。鷺宮製作所では今年3月のJABA東京大会で初優勝に貢献。

持ち球はチェンジアップ、スライダー、カーブ、カットボール。179センチ、75キロ。左投左打。

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