巨人のライバルだった名選手の記憶を掘り起こしてきた「巨人が恐れた男たち」。最終回は星野仙一さんの足跡をたどる。

打倒・巨人に全てをかけてきた「闘将」。2005年、その宿敵からまさかの監督要請を受け、胸中は揺れ動く…。激情の中日時代を振り返る「最大の敵編」、20年前の夏を初めて巨人の元オーナー・滝鼻卓雄氏(86)らが語った「幻の監督編」。関係者の証言で「星野仙一と巨人」に迫る。(取材・構成=太田 倫)

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 【最大の敵編〈2〉】 味方もまた、手綱さばきに苦労した。星野の現役後半に専属捕手だった金山仙吉は、「おっさん(星野のことだ)は顔と目で100勝はしている」と証言する。

 「マウンドで熱くなったら、サインなんか見てないもん。バッターの目をにらみつけてすごんで、そのまま投げてくる。もちろん王さんでも関係なし。そんな時は『気をつけてください、体に行ったらごめんなさい』なんて言っていた」

 86年オフに中日の監督に就任。巨人戦の監督賞は通常の3倍に設定された。過剰なまでの敵対心は熊本の一件でも触れたが、続きがある。

明大の後輩で、闘争心あふれるバイプレーヤーだった豊田誠佑。騒ぎが起きたとき、代打に備えベンチ裏で素振りをしていた。

 「乱闘に出遅れたら監督にミーティングで怒られた。『お前ら何のためにベンチに入っとるんや! 戦闘要員がなんであんな遅く出てくるんや!』って」

 翌日は広島市民球場への移動日。乱闘を想定して、ベンチから飛び出る前代未聞の練習をさせられた。

 「オレを含めた戦闘要員3人でね、5本くらいやらされたかな。内野のラインまで猛ダッシュ。もちろん本気だよ」

 星野は82年に現役を引退するとNHKでスポーツキャスターを務めた。因縁の川上哲治に師事し、常勝の哲学を吸収した。

 監督就任直後には、川上もかつて修行した岐阜の正眼寺(しょうげんじ)を訪れた。毎朝5時に起床し、たくあんをおかずにかゆを食べ、座禅を組む。3日たって、早川が迎えに行った。

車に乗り込むと「来年から行かんぞ!」と宣言した。「あれをずっとやっていた川上さんはすごい。オレにはできん」。あんドーナツと缶コーヒーをむさぼるように平らげた。

 球場外でも剛腕を見せた。就任直後には牛島和彦ら4選手と、巨人も狙っていたロッテ・落合博満の大型トレードを成立させた。

 かと思えば、88年オフには中尾孝義を巨人に放出して西本聖、加茂川重治を獲得。藤田元司監督とのトップ会談でまとめた禁断のトレードだった。東京・赤坂のホテルニューオータニに3日間缶詰めとなり、極秘交渉を重ねた。「偽名で宿を取れ」と命じられた早川は、福田功1軍マネジャーと自身の名前からとった「福田実(フクダ・ミノル)」として、星野をチェックインさせた。朝食会場でのこと。正体はバレバレだったが、食事を済ませて「福田実」とサインする。

「みっともない。みんなビックリしてたぞ」と照れ隠しに不機嫌になってみせた。

 第2次政権初年度の、96年9月20日の巨人戦(東京D)。星野は微妙な判定の連続を「巨人びいき」と断じた。「誰に頼まれてやっているんだ! 汚いぞ。公平にやれ!」。試合後に猛抗議し、責任審判に2度膝蹴り。この年から監督付広報となっていた金山が止めに入ったが…。

 「『やかましい、邪魔するな!』ってバカーンと殴られたよ。素顔はナイーブで繊細。物静かでジェントルマン。でもユニホームを着ると人が変わった。

熱くて、野球に正直な人だったな」

 巨人戦の通算成績は、現役時代は歴代6位タイの35勝(31敗)。監督としては163勝179敗6分け。星野にとって巨人とは何だったのか。早川の言葉を借りたい。

 「野球の夢であり最大の敵、でしょうか」

 最も好んだ「夢」という言葉。05年夏、思いもかけない夢が、58歳となった星野を揺さぶる。

 【注】68年4月27日の慶大戦。5回無死満塁で星野は慶大の9番打者を投ゴロに打ち取り、併殺を狙って捕―一と転送するが、打者走者がフックスライディングを仕掛け一塁手と接触。星野が激高して相手を追い回す大騒動になった。

 ◆星野 仙一(ほしの・せんいち)1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商から明大に進み、68年のドラフト1位で中日入り。6年目の74年に先発、リリーフ兼任で15勝9敗10セーブで巨人の10連覇を阻み、沢村賞受賞。

82年に現役引退し、86年オフに中日の監督就任。その後、阪神、楽天で監督を務め、史上3人目の3チームでリーグ優勝。正力松太郎賞受賞2度。17年1月にはエキスパート部門で野球殿堂入り。楽天の球団副会長だった18年1月4日、膵臓(すいぞう)がんのため死去。享年70。現役時代は右投右打。

 ※文中敬称略、肩書は当時のもの

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