昨年6月3日に89歳で永眠したミスタープロ野球長嶋茂雄さん。しかし今もなお、その鮮烈な記憶は人々の心で生き続けている。

スポーツ報知では、代名詞の背番号3にちなんで、毎月3日に「ミスターの世界」と題した特集を組み、さまざまな角度からその偉大な足跡に迫る。第1回は巨人編成本部長の水野雄仁さん(60)。「長嶋巨人最後の投手コーチ」が語る、等身大のミスターとは?(取材・構成=加藤 弘士)

 池田のエースとして甲子園夏春連覇に導いた“阿波の金太郎”。83年ドラフト1位で巨人に入団し、王監督1年目の84年からプロ人生をスタートさせた。

 「背番号31の意味、知ってます? 長嶋さんと王さんの背番号を並べて『31』になったんです。まさかその時、オレが『長嶋巨人最後の投手コーチ』になるとは、思わなかったよなあ」

 濃密な関係は93年、ミスターの監督復帰から始まった。ナインの反応はどのようなものだったのか。

 「雲の上の人。復帰1年目は正直、みんなどう接していいのか分からなくて」

 距離が縮まったのは、その年のオフのことだ。

 「ミスターのすごいところは、その距離感に気づいていたんだろうね。『投手会やるぞ! 何か食いたいものあるか?』と呼びかけてくれて。大皿のふぐ刺しを、一気にすくって食べるという伝説を聞いていたから、『ふぐ、お願いします!』って。

本当に豪快に一気食いしていたよ(笑)。その会では、若い頃の恋の話とか、お酒の話とか…めちゃくちゃ盛り上がったんだ。翌年の春季キャンプでも開かれて、『この人のために頑張ろう』って団結した。それでその年、日本一になったんだよ」

 その94年、水野さんは開幕から好調をキープ。だが、4月に左脇腹を痛め、戦線離脱をしてしまった。

 「家で静養していたら、(高級果物店の)千疋屋から、見たことのないような大きいカゴの果物が送られてきて。差出人を見たら、長嶋監督で。『一日も早い復帰を願っております』ってメッセージが寄せられていた。感激ですよ。あの時は『1軍に戻ったら、絶対日本一に貢献するんだ』って思ったからね」

 96年、チームは最大11・5ゲーム差をひっくり返す“メークドラマ”を完結させ、リーグ優勝を遂げる。V決定の10月6日、中日戦(ナゴヤ)で水野さんは大仕事を果たす。2点リードの7回1死満塁、強打者パウエルを遊ゴロ併殺に封じ、ピンチを脱した。

翌日の報知新聞で「勝負の分岐点」と報じられる好救援だった。

 「優勝を決めるいい仕事もできたし、日本シリーズでも投げた。そのオフですよ。長嶋さんが報知新聞へあいさつに行って、『もう水野はいいだろう』と言ったっていうんです(笑)。報知の巨人担当記者が聞いて『キンタ、ミスターがこう言ってたぞ』って教えてくれてね。それを聞いた瞬間、『引退しよう』って」

 波紋は大きかった。

 「球団も『いいのか!?』って言ってくれたんだけど『監督が使わないと言っているのに、続けても足手まといになるだけです』ってね。トレードとかも用意してくれたんだけど『行く気はないです』って、キッパリ辞めたんです」

 野球評論家として第二の人生が始まった。ユニホームの重責とは無縁な、穏やかな日々。だが、それは長く続かなかった。長嶋監督が「水野投手コーチ」を求めたからだ。99年、指導者として巨人に復帰した。

 「オファーに『無理です』と。33歳だったから。『いいんだよ。兄貴みたいな感じでやってくれれば』って。で、腹をくくってね」

 投手コーチとして仕えた長嶋監督は、どのような指揮官だったのか。

 「カンピューターがすごい時もあるし、『代えるぞ』というミスターに『いや、まだいけます』と遮った時は、ドキドキしたよね。抑えたら、本当に一安心だった。次の機会で監督が『代えるぞ』と言った時、『ハイ』と応えて代えた投手が打たれた際には、『なんでオレを止めなかったんだ!』って怒られた(笑)。選手を怒ることは全くない。よく鹿取さんと2人で監督室に呼ばれて『お前ら何やっているんだ!』って怒られて。翌朝、『監督、昨日はすいませんでした』って頭を下げると『ん? 何かあった?』って。それが長嶋監督でしたよ(笑)」

 00年には王監督率いるダイエーとの“ONシリーズ”を制して日本一に。

 「選手とコーチの両方で、長嶋監督を日本一にできた。最高の思い出です」

 01年、長嶋監督勇退。水野さんもコーチを辞した。

 「ミスターと一緒に辞めさせてくださいと。結果的にオレは『長嶋巨人の最後の投手コーチ』になったんだ。それからも何かあるごとに、声をかけてくださって。これはうわさなんだけど…長嶋さんがアテネ五輪の日本代表監督になった時、『投手コーチは水野で』って推してくれたみたいなんです。でも、周囲が『若いから』と反対して、立ち消えになったと聞きました。一緒にやれたことは、一生の財産。今はフロントとして強い巨人をつくることが、最高の恩返しと思っています」

 【記録メモ】

 長嶋さんが2度目の監督に就任した93年の巨人は3位。2ケタ勝利が1人しかいない苦しい投手陣の中、水野雄仁をリリーフで43試合に起用した。

 水野にとって43試合はシーズンの最多登板。

通算265試合のうち、84~88年の王貞治監督、89~92年の藤田元司監督時代に各80試合。93~96年長嶋監督時代の105試合が最も多い。

 現役最後の96年は10試合の登板ながら無傷の2勝。広島と同率首位に並んだ9月18日の横浜戦は2回1/3を無失点、同23日広島との首位攻防戦では延長10回を抑えてサヨナラ勝ちにつなげるなど、ともにシーズン終盤で価値ある白星だった。

 ◆水野 雄仁(みずの・かつひと)1965年9月3日、徳島・阿南市生まれ。60歳。池田では82年夏の甲子園、83年春のセンバツを連覇。83年夏も4強。同年ドラフト1位で巨人入り。通算265試合で39勝29敗17セーブ、防御率3.10。96年に現役引退。97年にはドミニカ共和国のウィンターリーグへ。

98年にはパドレスの春季キャンプにも参加。99年から2001年まで巨人投手コーチを務め、19年に投手コーチで復帰。20年は巡回投手コーチ。21年秋からスカウト部長。25年秋から編成本部長。

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