ベトナムでの戦場取材で知られる報道写真家の石川文洋(いしかわ・ぶんよう)さんが23日未明、悪性リンパ腫のため長野県茅野市の病院で死去した。88歳だった。

2017年5月に長野県諏訪市のご自宅でインタビューさせていただいた時のことを振り返りつつ、悼みたい。(甲斐 毅彦)

 ベトナム戦争を最前線で取材し、戦争のむごさを伝え、故郷・沖縄を撮り続けた報道カメラマン。その半生を振り返る書籍を出版したことを機に、依頼したインタビュー取材だった。

 世界55か国を訪れた石川さんのご自宅は、諏訪湖を見下ろす高台にある。カラマツの新緑に囲まれ、ツツジやモクレンの花が咲いており、静寂の中で聞こえるのはウグイスの鳴き声と風の音だけだった。記者に信州ワインを勧めながら穏やかに話した声が忘れられない。

 「ここは春から秋にかけて非常にいい所ですよ。秋にはカラマツが黄色くなって見事です。古里の沖縄には花はいっぱいあるけど、春を待つ気持ちというのはない。沖縄から知人が来るとここでお酒を飲むんですが、皆感動して帰りますよ」

 石川さんは大きく分けて4つの冒険を体験した。26歳の時、27ドルを持っての“世界無銭旅行”へ行ったこと。香港からベトナムに移住して従軍取材をしたこと。

46歳の時、妻子持ちでありながらも15年間勤めた新聞社を退社し、フリーカメラマンになったこと。そして68歳で、心筋梗塞のため倒れた後も、戦争で殉職したジャーナリストたちを慰霊するための四国遍路を続けたことだ。人生が冒険そのもの。何度も死の危機に直面していた。65年の米軍従軍中には、解放戦線の陣地からの猛烈な銃撃を受け、自分の目の前にいた米将校が即死した。乗っていた米軍の小型四輪駆動車をいったん降りて写真撮影していると、直後にその車は地雷を踏んで吹き飛ばされたこともあった。

 ベトナムやカンボジアでの取材だけでもそんな体験が7回はあったという。常に最前線で取材するということは、役割を終えれば戦線から離脱して交代する将兵たち以上に死の可能性は高かったはずだ。

 「日本経済新聞のサイゴン特派員だった酒井辰夫さん(68年8月22日没)にしても、プノンペンで狙撃された沢田教一さん(70年10月28日没)にしても、皆ちょっとしたことで亡くなった。酒井さんとは一緒にビールを飲んでまた会いましょう、と別れたその日にロケット弾の破片が頭に当たった。本当に小さな破片で、頭でなければスプーンか何かでほじくれそうなぐらい。私の場合は本当に運が良かったと思っています。

運としか言えませんね」

 その後も、北朝鮮、ボスニア、アフガニスタンなど世界各国を精力的に取材して来た石川さんは、ベトナムと沖縄の現地取材を、体が動き続ける限りライフワークとする考えを持っていた。ベトナムでは米軍が戦争で使用した枯葉剤のその後を、沖縄では辺野古の米軍基地建設の動きを追っていた。カメラの機種にあまりこだわりはなく、パソコンも使わない。原稿の執筆は、万年筆だけだった。

 「私はもともと機械が一切ダメなんです。カメラは(シャッターを押せば)写りますから。でも、そろそろスマートフォンぐらいは覚えないといけませんね」と語っていたのを覚えている。

 68歳で心筋梗塞になり、心臓の筋肉の半分以上壊死してしまったた石川さんは、身体障害者手帳を持っていた。だが、それでも、まだ旅を続けていた。「このままだと障害者手帳を取り上げられるんじゃないかな」と冗談も出た。

 石川さんの記事が新聞に掲載されたことを知らせるために、電話をすると、丁重な御礼とともにこう言われ、涙が出るほどうれしかった。「自宅に50部送ってください。

良い記事ですから。私が知っている方にお配りしたいんです」

 カメラマンとしての信念を持ちながら、その人柄は律儀で謙虚。心から尊敬できる報道写真家だった。

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