2024年3月、世田谷区豪徳寺に「旧尾崎テオドラ邸」がオープンした。一時は取り壊しが決まっていた築136年の洋館を保存し、1億円規模の大規模な改修工事を経て生まれ変わらせた。

内部は漫画のギャラリーや喫茶室として開放され、国内外から多くの人が足を運んでいる。幾多の壁を乗り越え、「この先、100年先まで洋館を残す」ための第一歩を踏み出したプロジェクトの経緯と現状、今後の展望について取材した。

クラウドファンディング&漫画家たちの融資で1億円以上の改修工事費用を調達

東京都世田谷区豪徳寺にある「旧尾崎テオドラ邸」。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる政治家・尾崎行雄の旧居と伝えられてきたが、のちに行雄の妻・テオドラ英子の父親が建てたものと判明している。築136年が経過した現在も建設当時に近い姿で残されている。一時は取り壊しが決まっていた建物が保存されることになった背景には、この洋館を愛していた漫画家の山下和美(やました・かずみ)さん、笹生那実(さそう・なみ)さんを中心とする保存プロジェクトの尽力があった。SUUMOジャーナルでは2022年に、二人の洋館に対する思いや、保存が決定するまでの紆余曲折について取材している。

豪徳寺の洋館「旧尾崎テオドラ邸」大家になった山下和美さん・笹生那実さんインタビュー。東村アキコや浦沢直樹の展覧会、喫茶室でヌン活も

世田谷区豪徳寺にたたずむ水色の洋館「旧尾崎テオドラ邸」。明治21年に建てられ、昭和8年に現在の場所へ移築された(写真撮影/相馬ミナ)

それから2年。「旧尾崎テオドラ邸」としてオープンに至るまでには、改修資金の調達や、長期間かつ高難度の工事など、多くのハードルがあったそう。それらを乗り越え、「この先、100年先まで洋館を残す」ための第一歩を踏み出した山下和美(やました・かずみ)さん、笹生那実(さそう・なみ)さんに、この3年間の道のりを振り返ってもらった。

――前回の取材では、建物の所有権が山下さんたち保存プロジェクトに移った時点までのお話を伺いました。当時はまだ建物の改修も行われておらず、運営の方法についても明確には決定していませんでしたが、そこから2024年3月に「旧尾崎テオドラ邸」としてオープンするまでの間に、何があったのかお聞かせください。

山下:当初はこの場所を「運営する」ということに対して、あまり明確なイメージを持っていませんでした。笹生さんと一部のスペースを使って「小さいギャラリーをやりたい」という話はしていましたが、他の部屋はテナントとして貸し出して複数のお店に入ってもらい、私たちの代わりに運営していただけたらいいのかな、というくらいで。実際、いろんな企業さんから良いお話もいただいたのですが、テナントが入ることで洋館のイメージが変わってしまうケースも出てきます。せっかくなら、このままの雰囲気をなるべく残したいと。保存プロジェクトのメンバーと話し合って、最終的にはテナントは入れずにやっていくことを決めました。そのほうがイメージも統一できますし、来ていただく方に館内全体を見ていただくことができるのではないかと思って。

豪徳寺の洋館「旧尾崎テオドラ邸」大家になった山下和美さん・笹生那実さんインタビュー。東村アキコや浦沢直樹の展覧会、喫茶室でヌン活も

山下和美さん。『天才柳沢教授の生活』『不思議な少年』『ランド』などのヒット作を持つ漫画家で、旧尾崎邸保存プロジェクトの発起人でもある(写真撮影/相馬ミナ)

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――ちなみに、3年前にお話を伺った際は、「改修コストが1億円かかる」ということでした。

笹生:当時は1億円の想定でしたが、あれから資材がどんどん高騰して、最終的には1億数千万円に膨らんでしまいました。どう費用を捻出したかについては、まずクラウドファンディングですね。ありがたいことに1000人以上の方からご支援をいただくことができました。

あとは、本当に多くの漫画家さんからご支援をいただきました。保存プロジェクトの理事も務めていただいている三田紀房(みた・のりふさ)さんがいろんな漫画家さんに呼びかけてくれて、何とか必要な資金を賄うことができたんです。

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三田紀房さん、高橋留美子さん、福本伸行さん、高橋のぼるさんなど、そうそうたる面々が全面協力。融資によって、改修工事費を用意することができた。ショップには支援した漫画家や洋館を訪れた漫画家のサイン色紙が飾られている(写真撮影/相馬ミナ)

――改修はどのように進めていきましたか?

山下:貸し出しをやめて全館を自分たちが使うなら、どんな雰囲気にしようかと。一番のポイントは「どの時代を再現するか」でした。建てられたのは136年前の明治時代ですが、手直ししながら住み継がれてきたこともあり、館内には各時代の雰囲気が残っていて。特に、昭和の要素がかなり強かったんです。たとえば、トイレに向かう廊下の床には昭和のタイルが張ってありました。昭和レトロな感じもそれはそれで面白く階段踊り場にあった昭和の照明も私は残したいと提案しましたが、メンバーに却下されました。

笹生:そのタイルは昭和40年代頃の普及品で、私の実家にも友人の家にもありました。言葉は悪いですが、そんな見慣れたものをわざわざお金をかけて再現する必要はないんじゃないかと。

だったら、洋館が建てられた当時、つまり明治時代の姿を可能な限り再現しようという方向で意見がまとまりました。

――どんどん支援者が現れ、保存プロジェクトに関わる人が増えていくにつれて意見の相違も出てくると思います。すり合わせるのは大変そうですね。

笹生:それぞれ好みも違いますし、難しい部分はあります。最新式のトイレにするか不便でも洋館らしい輸入品のトイレにするかほとんどバトルでしたね(笑)。それほど洋館らしさを大事にしたいという感じですね。

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旧尾崎邸保存プロジェクト・共同代表の笹生那実さん。夫は『静かなるドン』などで知られる漫画家の新田たつおさん。新田さんは洋館の土地購入の際に資金を援助するなど、夫妻で保存活動に尽力している(写真撮影/相馬ミナ)

136年前の姿を、できるかぎり残したかった

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木造2階建の洋館は、136年の時を経てかなり老朽化が進んでいた。基礎や床などの耐震補強を施したうえで、建設当時の姿をイメージさせる改修を行っている(写真撮影/相馬ミナ)

――136年前の姿を復刻するとなると、改修工事の難易度も高くなるのではないかと思います。施工会社はどのように選びましたか?

山下:改修を手がけてくれたのは、保存活動を一緒にやってくれていた建築家の田野倉徹也(たのくら・てつや)さん。私の自宅も建ててくれた信頼できる方で、理事のひとり(建築担当)にもなっています。また、田野倉さんのつながりで、世田谷の代官屋敷を修繕した施工会社にお願いすることができました。

洋館を補修した経験も豊富な会社ですが、それでもこの建物に関しては難易度が高かったようです。

特に、「窓」ですね。隙間があったり、開けようとしても全く動かない状態の窓がたくさんあり、改修する必要がありました。ただ、今はもうどこにもない跳ね上げタイプの窓で、しかも中に重りとリールが入った、ものすごく精巧なつくりだったんです。改修するためには一度分解し、構造を理解してから組み立て直すしかなかった。窓だけで数千万円単位の費用がかかりましたね。

――それだけのコストがかかっても、この窓を残したかったと。

山下:そうですね。当初は別の素材に替えるなら楽に保存できるという話もありましたが、それならこの洋館を残す意味はないと思うくらい、窓は重要なポイントでした。

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階段踊り場の窓。ここだけは手を加えず、昔のままで保存している(写真撮影/相馬ミナ)

――床や壁もきれいになりましたね。改修前は損傷している箇所もありましたが、すべて修繕されています。

笹生:傷んでいた床は一度剥がして、補修をしたうえで敷き直しました。損傷が激しい箇所もあり全てを再利用することはできませんでしたが、喫茶室やギャラリー、廊下など、お客さんがいらっしゃる場所には古い木材が使われています。
壁は、ボロボロになっていた箇所を修繕したのと、耐震壁は塗り直しています。あとはトイレを改修した程度で、間取りなどは変えていません。あそこのスイッチなんかも、すでに壊れていますが「飾り」としてあえてそのままにしてあります。

――なるべく当時の雰囲気を残そうと苦心されたことが伺えます。外構部分は、以前あったコンクリート塀がなくなるなど少し変わっていますが、これから手を入れていくのでしょうか?

山下:擁壁は作り直す予定です。それから洋館のまわりを鋳物の柵で囲って、バラの庭を整備したいと思っています。週に1度しか休館日がなく、工事のスケジュールを調整するのがなかなか難しいのですが、少しずつ進めていきたいですね。

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1階の喫茶室。洋館の雰囲気に合わせ、家具や調度品も厳選している(写真撮影/相馬ミナ)

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こだわりの紅茶や、専属パティシエがつくるケーキを味わえる。厳選した紅茶葉を練り込んだ「旧尾崎テオドラ邸オリジナル ヴィクトリアケーキ」(880円)は、テオドラが生きた19世紀ヴィクトリア朝時代に、ヴィクトリア女王が愛したと伝わるイギリスの伝統的なお菓子(写真撮影/相馬ミナ)

洋館の保存に共感する、たくさんの人の思いに支えられ

――約2年がかりの改修が終わり、2024年3月に「旧尾崎テオドラ邸」として、グランドオープンしました。オープンから1年が経ちましたが、ギャラリーや喫茶室を利用されるお客さんの反応はいかがですか?

山下:いろんな声をいただきますが、幸いなことに概ね好意的だと思います。

ギャラリーではいろんな漫画家さんの展覧会を開催しているので、展覧会によって客層がまったく違うんです。それがかえって、さまざまなタイプの人、幅広い年齢層に洋館を知ってもらうきっかけになっていると思います。

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館内利用はチケット制。ギャラリー入場とショップを利用できる「ギャラリー入場チケット(1000円)」のほか、喫茶室の席の予約が付いたチケット(1000円)や、アフタヌーンティーを含むチケット(5950円)がある。喫茶室のみ・ショップのみの利用は不可。※全て未就学児は無料/喫茶室の利用時間は指定入場時間から90分(写真撮影/相馬ミナ)

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取材時は「不思議な少年 山下和美展」を開催(現在は終了、「萩岩睦美『ポー&リルフィ展』」が5月20日(火)まで開催中)。貴重な原画作品が多数展示されていた(写真撮影/相馬ミナ)

――洋館好きだけでなく、展覧会を目当てに足を運んだ漫画ファンに洋館のこと、保存プロジェクトのことを知ってもらえるのは大きいですね。

山下:規模のわりにチケット代は割高かと思いますが、この先も長く保存していくためのご寄付だと思ってご利用いただける方もいます。本当にありがたいですね。最近は広島や九州から来られたお客さんや、フランスからお越しになった方もいました。

――漫画の力って、やっぱりすごいなと改めて感じます。

笹生:ギャラリーで展覧会をやりたいという漫画家さんも、ありがたいことに増えています。今後は東村アキコさんの「かくかくしかじか展」(2025年5月24日~7月15日まで開催予定)がありますし、浦沢直樹さんの展覧会も予定しています。みなさん旧尾崎テオドラ邸を保存することに共感してくれて、お声がけすると快く応じてくださいますね。

山下:ご自身の作品以外の展覧会に、足を運んでくださる漫画家さんもいらっしゃいます。じつはあの人が来ていたと、あとから知ることも多くて。私たちが想像していた以上に、このギャラリーがいろんな人をつないでくれていると感じます。

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原画などを展示する什器(写真中央)は、2022年に閉館した「ぬりえ美術館」(東京都荒川区)から譲り受けたもの。ガラス面になった上段だけでなく、2段目以降の引き出しを引いて多くの作品を鑑賞できる(写真撮影/相馬ミナ)

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描き下ろし原画作品などを販売し保存資金に充てるほか、能登半島地震や台湾地震の被災地支援のためのチャリティーオークションも行っている(写真撮影/相馬ミナ)

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山下さん自身も、2日に1度くらいのペースで洋館に足を運ぶ。打ち合わせに使ったり、仕事の合間の息抜きに喫茶室でおやつを食べたりしているそう(写真撮影/相馬ミナ)

――漫画家さんだけでなく、近隣住民の方が家具を提供してくださるなど、多くの方の支援があったと伺いました。

山下:たとえば、2階にある素敵な椅子も、近所にお住まいの方のおばあさまが長くお使いになっていたものを譲っていただきました。保存プロジェクトのことを応援してくださっていて、「使ってもらえるなら、ぜひ」ということで。

――それだけ洋館を残したい、そのために少しでも協力したいという人が多かったんですね。

山下:そうですね。おそらく、この洋館に限らず、他の地域でも似たようなことがあるのだと思います。古い建物がどんどん壊され、それまで当たり前だった景色が失われていく。いろんな人のなかに、そうした小さい後悔があるのではないかと。だからこそ、奇跡的に残った旧尾崎テオドラ邸という場所に対して、特別な思いを抱かれる方が多かったのかもしれません。

自分たちがいなくなっても、思いのある人に引き継いでほしい

――保存プロジェクトでは100年先まで洋館を残すことを目指すと宣言されています。その第一歩を踏み出した今の思いを、あらためてお聞かせください。

笹生:先ほど山下さんがおっしゃっていたように、私自身もこれまでいろんな建物が取り壊されていくことに対して、歯がゆい思いを抱いてきました。そういう意味でも、旧尾崎テオドラ邸を残すことができたのは、非常に嬉しく思います。もちろん、これまでの道のりは苦難の連続でしたし、この先も大変なことだらけだと思いますが、地域の遺産になり得る建物を保存する活動として、一つの事例を示せたことは本当に良かったなと。

山下:保存が決まった当時は嬉しさと同時に、これから背負っていくものの大きさを感じていました。そもそも、これだけの建物を本当に運営していけるのかと。おそらく私たちだけでは背負いきれなかったと思いますが、パティシエの方やギャラリーを運営してくれるスタッフ、広報を担当してくれているスタッフなど、想像以上に心強いメンバーが集まってくれて、今は少しホッとしています。みんながいなければ、この古い洋館のなかで一人ぶるぶる震えながら暮らし、建物もどんどん朽ちていくような未来もあったかもしれません。ですから、古い建物を残すには「残すためのシステム」が必要だと分かったし、今後の保存活動に向けても良い勉強になりましたね。

――建物が長く活用される仕組み、保全費用を賄う仕組みがあれば、所有者が変わっても保存できる可能性が高まります。

山下:そうですね。私たちとしては、今の保存プロジェクトのメンバーがこの世からいなくなっても、洋館をそのままの形で残したいと考えています。そのためにできることはやって、思いのある方につないでいけたらいいですね。

豪徳寺の洋館「旧尾崎テオドラ邸」大家になった山下和美さん・笹生那実さんインタビュー。東村アキコや浦沢直樹の展覧会、喫茶室でヌン活も

(写真撮影/相馬ミナ)

●取材協力
旧尾崎テオドラ邸
旧尾崎邸保存プロジェクト(Twitter)
旧尾崎行雄邸保存プロジェクト(Facebook)
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