1683年1月25日、駒込(現在の文京区)の大円寺の出火を発端とした大火災が発生した。通称「お七火事」と呼ばれる江戸の大火だ。

火は強い北西の風に乗って、本郷から御茶ノ水、神田と南の方角へ延焼。また神田川を沿うように隅田川までたどり着くと、対岸の両国や深川まで燃え広がった。判明しているだけで、大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95が焼失。町家の被害に至っては数万戸に及び、焼死者も約3,500人に及んだ。ちなみにあの松尾芭蕉も被災した1人だ。

この火事は「お七火事」と呼ばれているが、“お七”とは16歳の少女の名前のこと。なぜ彼女の名前が火事の通称として使われているのか。それには深い理由がある。

元々、お七は1月25日の大火で被災した少女。現在では被災すると、学校や自治体の施設に避難することが多いが、当時は寺社に身を寄せることが多かった。八百屋を営んでいたお七の一家も、その例にもれず吉祥寺(円乗寺、正仙寺との説もあり)に避難していた。そこでお七は、寺小姓の生田庄之助(小野川吉三郎、山田佐兵衛との説もあり)と恋愛関係になる。

しかし自由な恋愛など認められることは少ない時代。家が元通りになったこともあって、2人は離れ離れになってしまう。そこでお七は“また火事になれば庄之助に会えるかもしれない”と自宅を放火してしまう。幸いボヤで消し止められたものの、当時の法律では放火犯は火あぶりの重罪であり、もちろんお七も火あぶりの刑に処せられた。

江戸時代の地震や火事などの災害についてまとめた「大江戸災害ものがたり」(明治書院)の著者、酒井茂之氏に詳しく聞くと、このような意見が。

「江戸時代の人々は、娯楽が少なかったこともあり、何か事があると、それに対して大きな興味を表すことが多かったようです。お七が火あぶりの刑で筋違橋のたもとにさらされたとき、大変な見物人が押しかけたといわれていますが、『同情』や『憎しみ』という感覚ではなく、放火という大罪を犯した人物が、16歳という若い娘だった、ということの興味からだったと思われます」

この3年後、井原西鶴が「好色五人女」の4巻で「恋草からげし八百屋物語」として、お七を取り上げたことで更に話題となり、歌舞伎では「お七歌祭文(おしちうたざいもん)」、浄瑠璃では「八百屋お七恋緋櫻(やおやおしちこいのひざくら)」などの題材に取り上げられていった。

また酒井氏は、江戸庶民のお七への感情について、こう話してくれた。

「物語や芝居を見ると、作者たちは恋に狂って大罪を犯したお七を、悪人とはとらえていないようです。むしろ若い娘の一途な思いに対して同情すら抱いているような気がします。お七が火あぶりの刑に処せられたのち、お七を灼熱の苦しみから救うために、大円寺に「ほうろく地蔵」が安置されましたが、この存在も江戸庶民がお七に抱いた感情を、素直に表しているような気がします」

実はお七に関する事実は、長い年月のなかで芝居や言い伝えが入り混じって判然としていない。放火が原因で処刑された16歳(もちろん数え年なので現在であれば14歳か15歳)の少女がいたことは事実のようだ。

「恋は盲目」と言ってしまえばそれまでだが、現代でも恋愛関係から事件に発展することはある。せめて他人を巻き込むような大事件にまで発展することの無い様に願うばかりだ。

元画像url http://jrnl-parts.s3.amazonaws.com/wp/wp-content/uploads/2013/01/720aed7b9791b90c52b91f882e71b8b9.jpg
編集部おすすめ