TBSラジオ「コシノジュンコ MASACA」毎週日曜日夕方17時から放送中!
2020年7月26日(日)放送
中村獅童さん(part 1)1972年生まれ。元歌舞伎役者の初代中村獅童を父にもち、1981年に二代目中村獅童として初舞台。
JK:最初に会ったのはもうずいぶん若い時よね。思い出す~! かわいかったわぁ。
獅童:19~20歳ぐらいの時でしたよね。おうちにお邪魔させていただいたこともありますし。母がもともと昔からお知り合いだったんですよね。
JK:キラー通りのお店に来ていただいて。素敵なお母さまね。
獅童:僕がまだ芽が出ないころに浴衣のモデルに起用していただいて、ファッションショーにも出させていただいて。でもそれをきっかけにモデルのお仕事もやらせていただいて、本当にいいきっかけでした。
JK:あの時は歌舞伎俳優って感じはしなくて、着物が似合う人だなあって。そんなこと想像しなかったわ(^^)
獅童:そうですね、歌舞伎では大人になりかけていて、子役でもなく、中途半端な時代だったので役もつきにくかったころでした。
JK:でも叔父さまが萬屋錦之介さんだから、その系統っていうのは分かる。今は歌舞伎にびったりですね。歌舞伎系の顔してる。この前もシアターコクーンで見たとき、いい歌舞伎役者になったなぁって思った。
獅童:ははは(笑)『四谷怪談』ですね。ありがとうございます。
出水:獅童さんといえば、4月にYouTubeで『中村獅童一家チャンネル』を開設したんですよね。
JK:も~かわいいじゃない! いいお父さま! 本当想像がつかないけど、子どもがいると人生かわるでしょ。
獅童:そうですね、僕が1人っ子だったんで、逆に子どもに教えられることが多い。皆さん「いいお父さまですね」っておっしゃってくださるんですけど、子どもが僕を父親にしてくれたのかなって感じがします。
JK:陽喜くんと夏幹くんでしょう? 男同士だから喧嘩もにぎやかになるわよ。
獅童:ええ、もうにぎやかですね! 今はもう赤ん坊にやきもち焼いてます。
JK:ふしぎでしょうね、1人だったのが急に2人になっちゃって。
獅童:そういうもんだっていうのはインスタのコメントでいただいたので、予想はしてたんですけど。「陽喜くん最優先でやってください」って皆さんご親切にご意見くださるんですよ。
JK:でも普段ものすごく忙しいでしょう。子供と一緒に朝から晩まで一緒ってなかなかありえないから、自粛の時にびたっと初めての親子水入らずじゃない?
獅童:そうですね、役者・中村獅童としての仕事はほとんどキャンセルになった状態だったんですけど、家族と過ごす時間という意味で自分にとって有意義な時間にしなくてはいけないし。今後の自分の生き方とかいろんなことを考える時間を神様が与えてくださったんだと思うことにしました。だから今までのことを取り戻そうというよりは、自分たちで新しい道を作らなくてはいけない、という気持ちになりました。
JK:本当にそうだと思う。今までいろいろ苦労もあったでしょうけど、家族とともに地に足がついた感じがする。歌舞伎ってつながっていかなきゃいけないから、そういう意味ではよかったですね。やんちゃな獅童さんも、やっと(^^)
出水:YouTubeチャンネルにはおうちでの様子や入浴シーンなど、素の獅童さんが見られますね。
獅童:ちょっと恥ずかしいんですけど・・・昔は役者としてプライベートは見せるものじゃないという時代があって、自分の中でも私生活をお見せすることに葛藤もあったんですけど、今の時代はスの中村獅童も出していかないと。
JK:いずれ陽喜くんは子役でデビューするんでしょ、3歳ぐらいになったら。
獅童:その道を作ってあげるのが親の責任だと思ってますし、それから先のことは他にやりたいことがあればやればいいと思うし。
JK:海老蔵さんのお子さんも勘九郎さんのお子さんも、そのぐらいから初舞台出てますもん。だからもう初舞台なんですよ、おうちからYouTubeで! 顔見世っていうのもおかしいけど(^^)
出水:獅童さんご自身は6歳の時に日本舞踊を始めて、自ら「舞台に出たい」と直訴されたそうですね?
獅童:僕の父は子役のうちに廃業してしまったんですけど、僕が幼稚園の時は親せきや従兄の舞台を見に行くことが多かったんです。そうすると、隈取して立派な刀を差して、というのを見ると、仮面ライダーやウルトラマンに憧れるのと一緒で、自分もああいうお化粧をしてやりたい!と祖母に頼んだのが始まりです。歌舞伎っていままで見たことのない異空間というか、夢の空間というか。それが子供ながらに肌で伝わってきた。ここに入れば変身できる!って(笑) 変身願望が強かったんですね。
出水:そっちの道に行きたいと伝えたとき、お母さまはどんな反応だったんですか?
獅童:うちのおふくろは、1人息子が言い出したことだから親として全面的に協力しよう、という姿勢でした。うちは古くからのお弟子さんとかお付きの方がいないゼロの状態だったんで、血はあるけど(誰かの)弟子でもない、という非常に中途半端な位置だったので、そこからは母が付き人替わり。
JK:そうなの?! 初めて聞いた! 全部用意してあるわけじゃないのね!
獅童:だからうちのおふくろは着物を着ながら、絨毯をかついで歌舞伎座の非常階段をあがっていって。よその役者さんのお付きの方が「獅童さんのお母ちゃんは力持ちねぇ!」なんて笑ってた。うちのおふくろもよく恥ずかしげもなくやってくれたなあと思って。鏡台なんて僕がいま持っても重いぐらいなのに。
出水:そして8歳の時に二代目・中村獅童を名乗って初舞台を踏みます。当時のことは覚えていらっしゃいますか?
獅童:はっきり覚えてますね。初舞台のときは先代の勘三郎のおじさまに手を引かれて舞台に出たんですけど、勘三郎のおじさまのカリスマ性というか、オーラというか、子どもながらにすごい役者なんだと言うのが伝わってくるんですよ! 亡くなった勘三郎のお兄さんもそうですが、おじさまもお客さんに喜んでいただくためにいろんな工夫をする方で、初日からでもお客様が喜ぶように演出を変えるんです。
JK:あの方はアドリブが! 突然セリフが出てくるでしょ、現代的なことをポーンって言ったり。
獅童:そう。
JK:へぇ~!
獅童:お客さんに笑っていただくための貪欲さというか。手をつないで花道を引っ込むだけでも成立するんですけど、そこにもうひと工夫、ふた工夫していく貪欲さというのはいまだに影響を受けてますね。
JK:ひとりぼっちになった時は、話が違うじゃないかと思った?
獅童:あ、今日はこういう風にやるんだ、って(笑)若干動揺はしましたけどね! でも、そういうドキドキしている感じもお客さんは面白かったんでしょうね。

JK:そこから歌舞伎の道がびっとキマったんですよ! 8歳で1人舞台! でも、そこからずーっと続いていかなかったんですか? そこでぷっつん?
獅童:子役から思春期にかけては毎月々々お役をいただけることもないんでね。やりたくなくなったわけではないけれど、自分より後から出てきた人のほうにいい役が付きだしたんで、どういうことなのかな?? って(^^;)やっぱりお父さまが活躍している方だと、お父様の当たり役をやったりする。お客さんも見たいですからね。僕は父が早くに廃業しているので、なかなか役は回ってこないですよ。
JK:そういう悔しさも、今は挽回できてるからね!
獅童:当時は溜まっていくばっかりで、発散する場がなかった。それもあってロックバンドをやったんじゃないかな。
JK:私が会ったときもそんな雰囲気があったような・・・。そう見えてたもの。
獅童:だけど、バンドで反骨精神でやってたつもりなんだけど、不良にもなり切れない。新宿あたりでライブなんかもやってたんですよ。だけど、ライブに行こうとすると母に「お弁当持って行かなくていいの?」って言われちゃう(笑)「弁当なんかイラネーよ!! 今日はロックなんだよ!」「いいからお弁当持って行きなさい!」みたいな(笑)それでライブが始まると、誰よりも目立つところで踊ってる人がいるんですよ。熱狂的な客がいるなーと思ったら、よく見るとうちのおふくろだった(笑)
JK:ええーそうなの?! 全然そうは見えない!
獅童:そういう母なんですよ! 黒いサングラスかけて、ショールみたいのつけて。何やってもおふくろにはかなわないなあって。恥ずかしかったですよ、学校で悪さして呼び出されると着物着て番傘みたいなのを差してくるからさぁ・・・「誰だよぉ?!」みたいな(笑)ほんっとに。
JK:おばあさまも素敵な方よね。
獅童:みんなに止められるのを期待して反抗するんだけど、おばあさんに「俺バンドやるんだ」って言っても、「どんどんおやりなさい、歌舞伎とか表現することにもつながるから」なんて言われちゃうと、なんか調子狂っちゃう(^^) 髪の毛をブロンドにして帰った時も、おふくろは「いいわね、それ! 写真に撮りましょ!」って言って、張り切って写真撮ったり。ただ1回だけ『ピンポン』っていう映画のときは、漫画のキャラクターに合わせてオーディションの時から髪の毛も眉毛も剃ったんですけど、オーディションから帰った時はさすがにビックリしてましたね! ある日突然、髪の毛も眉毛もなくして帰ってきたから、よっぽど何かやらかしたんじゃないかって(笑)
=OA楽曲=
M1. I Fought The Law / The Crash
◆7月26日放送分より 番組名:「コシノジュンコ MASACA」
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