ライムスター宇多丸がお送りする、カルチャーキュレーション番組、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」。月~金曜18時より3時間の生放送。
『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。
今週評論した映画は、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(2020年7月31日公開)です。
宇多丸:
さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、7月31日に公開されたこの作品、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』。
(曲が流れる)
大林宣彦監督が20年ぶりに故郷・尾道で撮影し、無声映画、トーキー、アクション、ミュージカルなど様々な映画を通して、戦争の歴史を辿っていく。尾道の海辺にある映画館、瀬戸内キネマが閉館を迎える夜、日本の戦争映画特集を見ていた3人の若者が突如、スクリーンの世界にタイムリープしてしまう。主人公となる3人の若い男を、厚木拓郎さん、細山田隆人さん、細田善彦さんが演じ、ヒロイン3人を、本作が映画初出演となる吉田玲さん、成海璃子さん、山崎紘菜さんが演じている。
また、常盤貴子さん、小林稔侍さん、高橋幸宏さん、武田鉄矢さん、稲垣吾郎さん、浅野忠信さんなどなど、日本を代表する俳優陣が集結した……特にね、大林映画オールスターキャスト的な側面もある、という一作でございます。
ということで、この『海辺の映画館―キネマの玉手箱』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「ちょい少なめ」。
主な褒める意見は「すさまじい情報量、チープなCG、違和感ありまくりの演出……」。これ、全部褒めてます。大林さんの特徴というかね(笑)。「……上映中は圧倒され、戸惑ったが最後はなぜか涙」とか、「反戦というシンプルなメッセージがしっかり伝わってきた」「ありがとう、大林監督」などがございました。一方、ちょっと批判的な部分をもちろん入れていただいている方もいて。「ごちゃごちゃしていてよくわからなかった」っていうね、まあそれはそれでごもっともでもあるかもしれないご意見もいただきました。
■「とにかく小さい私ができることはないか、手を差し伸べることができないかと考えざるを得なくなるような感動を感じました」byリスナー
代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「タツボー」さん。「今週の課題映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』、私めは大林宣彦監督の映画は初めてで、及び腰で拝見した次第です。感想を申し上げますと、とてもとても楽しかったです。
その後、なんか出るわ出るわの謎の字幕たち。そして素人が作ったかのようなCG背景などを受け入れるまでに多少の時間を要したのは言うまでもありません。ただし、結果として終わる頃には大号泣して帰ることになりました。とても情動の忙しい映画体験となりました。と、言いますのも、今まで鑑賞した映画とは違い、今作は明らかに映画館での鑑賞を意識している映画でした。
映画の中に入ってしまう主人公ら観客。そしてそれがまさに今、目の前で鑑賞しているスクリーンと地続きになっているという二重構造から来る、まさに『映画を体験する』。だからこそ私たち観客も主人公と同化し、映画のメッセージを真に受けることができたという気がします。この映画を拝見した後、なにか小さい私ができることはないか、手を差し伸べることができないかと考えざるを得なくなるような感動を感じました」ということでございます。
あとね、褒める意見、ちょっと全部ご紹介しきれないので、ちょっといろいろと省略をしますけども。たとえば、「大林作品を通して日本の戦争の歴史に今ひとつ関心を持てなかった自分がすごく変わって、日本の戦争を歴史を学ぼうと思った」というようなご意見であるとか(註:RNさんごさん)。
あとは、「大林映画はこれまで非常に苦手意識があって、どっちかというとあんまり好きじゃなかったんだけど、実際に久しぶりに見てみたら、すごくやられてしまった。まるでクリストファー・ノーランの『インセプション』のように、彼の映画という芽を埋め込まれてしまったようだ」という、これもめちゃめちゃ面白いメール。これ、ラジオネーム「サーフィンハムスター」さんのメールがあったりとか。
あと、ちょっと批判的な意見もありましたのでご紹介しましょう。ラジオネーム「胡麻塩」さん。「恥ずかしながら、僕はこれまで大林宣彦監督の映画を見たことがありませんでした。アトロクの特集で柳下毅一郎さんが『あえて卒倒しに行った方がいい』と仰っていたのを受けて、予習をせずに見に行きました。結論から言うと宇多丸さんをはじめとする皆さんが大林映画のどこを絶賛してるのか、全く理解できませんでした」。これはすいません。言葉足らずだったかも。
「冒頭からスクリーンに映し出されるもの、皆さんが『すごい情報量』と評しているであろう映像のすべてが僕にとってはごちゃごちゃしたよくわからない映像の塊としか受け取られませんでした」という。で、「ちょっと乗れなかった」ということで。
あとですね、これもちょっと全部は取り上げきれないんですが。「秘密のしゃかえもん」さん。全体としては大絶賛していただきつつ、「女性の描き方がちょっと古くさい部分があるんじゃないのか?」というようなご指摘がありまして。これもたしかにね、そういう面は当然あるわけです。まあ、お年もお年ですからね。そういうようなところも含めて、ちょっとね、これから触れていきたいと思います。

■大林宣彦監督の集大成であり新境地、「大林宣彦自身の走馬灯を映画化」!
といったあたりで『海辺の映画館―キネマの玉手箱』、私もTOHOシネマズシャンテ……あと、実は去年9月の時点で、もう完成直後ですかね、一足早く試写で拝見させていただきました。という感じで、計 3回ぐらいは通して見ております。ということで、とにかくですね、大林宣彦という映画作家の、文字通り「全て」をぶち込んだ1本、というね。
それにしたって今回の『海辺の映画館』はですね、「大林宣彦にとっての映画」……要は、彼がこれまで作ってきた映画、見てきた映画、愛してきた映画。あるいは、映画を通して表現してきたこと、映画から学んだこと。ひいては、今、伝えたいこと、そして「これから」伝えたいことまで、本当に大林宣彦の持てる全てを、1本にぶち込んだ1本でございまして。まるでこの作品、この映画自体が、大林宣彦という存在そのもの、と言っても過言ではない。「これが大林宣彦です」と言っても過言ではないような1本になっている。
で、本作に対する常盤貴子さんの言葉、改めてちゃんと引用するならば、「走馬灯はその人にしか見られないはずなのに、サービス精神旺盛で、周りにあるネタを全て映画にしてしまう監督が、前倒して見せてくれたんだと思いました。それは前代未聞。そんなことができるのは大林監督しかいない」という、常盤貴子さんのこの言葉。要は、大林監督、大林宣彦自身の走馬灯を映画化、作品化!っていうね。この表現、これ以上的確な『海辺の映画館』評はないと思いますんでね。という感じだと思いますけど。
じゃあ、そのさっきから言ってる大林宣彦とは、どういう映画作家なのか、というあたり。これをちゃんと整理をしておく必要が……特に、これまで僕が『その日のまえに』『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』と評してきましたけど。ちょっと重複する部分もあるかと思いますが、やはり大林宣彦とはどんな人なのか、ご存知ない方がいっぱいいらっしゃると思いますので。改めて手短にざっくりと説明しておきますと……。
■「クセが強い」大林監督が考える映画の本質とは何なのか
今回の劇中でもですね、1998年の自伝的作品『マヌケ先生』の直接的な引用という形で出てきましたけども……あの、「映画を見るよりも先に映画を作っていた」という、いきなり誰もがビビるしかないエピソードを持つ(笑)、いわゆる「焼け跡世代」ということですね。
で、桁違いの映画マニアとして育ちつつ、日本の自主制作映画の先駆け的存在として、50年代末から60年代にかけて名を残す一方、60年代半ばから70年代にかけては、先鋭的なCMディレクターとしても本当に大活躍。本当に日本のCM史に残る名作の数々を残しまくっている。もうこの時点で大林宣彦は、全然歴史に名前を……要するに、自主制作界とCM界の2つの世界で、もうすでに名前がガンガン残っちゃう人だったんですけども。そこからさらに77年の『HOUSE ハウス』という作品で、当時としては異例中の異例、異業種、自主制作映画出身監督として、商業映画にデビューする。
以降、今回の『海辺の映画館』まで、常にその自主制作映画的な精神、実験精神を保ったまま、第一線を走り続けた、という。もう本当に、破格の存在なわけですね。大林宣彦さんね。で、当然のように、その作風はですね、この言葉はこういう人のためにあるんだと思います……「ものすごーく、クセが強い!」わけですね。本当に、クセが強い!という。基本、他人が口を差し挟めないタイプの作家ですね(笑)。外側の基準でジャッジしてもしょうがないタイプの人っていうか、「ここがいい、悪い」とか、もちろんあるんだけど、そういうことじゃない次元の人っていうかね。そういうところは言えると思います。
で、作風に関してちょっと説明しますけども、今回の劇中でも、その映画というものの本質として……つまり、大林宣彦流の映画論として語られている部分ですけど、「映画というのは本来、本質として不自然な、作り物なんだ」という。その本質をひたすら追求し、強調したような、あえての不自然な画づくり、あえての不自然な演技、不自然な編集……その全てがでも、映画を見ているとなるほど、映画の中にしか現出しえない世界、もうひとつの世界に、我々を連れていく。それが映画でしょう?っていうような、大林宣彦的な映画論でもある。
そして、その中にこそ、作り物の中にこそ、まこと、真実が宿り、それが観客の心に伝わって、息づいていくんだ、っていう……要は非常にロマンティックなアートに対する信念、というのが、本当に大林作品には貫かれているわけなんですね。「花も実もある絵空事」っていう風にね、僕の番組に来ていただいた時にも言っていただきました。まさに「花も実もある絵空事」ということをやり続けてきた方。
さらには今、「ロマンティック」という言い方をしましたけれども、失われゆくものへの愛惜、ノスタルジー、センチメンタリズム。それがやはり、過剰なまでの熱量でほとばしる! というのも、その大林映画の、本当に大きな特徴であり、魅力ですよね。で、それが、過去と現在と未来……生者と死者、死んでいる人と生きている人とがシームレスに混じり合う世界観、それによって、またさらに失われゆくものへの愛惜みたいのものが極まっていく、みたいな。
で、そこで描かれる、たとえば女性像とか男性像とかは、まあたしかにちょっと、古風ではあるんですよね。古風というか、大林さん一流の理想像というか。まあ、お年っていうこともあるので、それはたしかにちょっと古風なんですが。僕に言わせると、古風なりの誠実さというものはすごく貫かれている、っていう。そういう部分はあると思います。後ほどもちょっとその話はしようと思いますけども。で、その失われゆくものへの熱い思いの向こうには、戦争というもの、あるいはその時代の変化というものに対する、実は非常に社会的な問題意識というのが、本当はそこは浮かび上がってくる、ということですね。
■故郷・尾道を舞台に、自身を投影した3人の主人公を配置する
たとえばその若者たち……特に少女たちの青春が、戦争などで本当に無残に踏みにじられていくことへの、無念と怒りっていう。それはまあ大林宣彦作品の、本当に全作品、フィルモグラフィー全体を貫く、通奏低音と言ってもいいものかもしれません。本当に、『HOUSE ハウス』でだって、急に戦争の話をしだしていたわけですから。で、以上のようなその、大林宣彦作品の強すぎる個性というのがですね、皆さんご存知、2012年の『この空の花 長岡花火物語』以降ですね、「デジタル」という新しいおもちゃを、このあまりにも元気すぎる、70歳を超えて80歳にもなった新人作家がですね……(笑)、とにかく新しいおもちゃを手にして、元々そのクセが強かったところがですね、さらに情報の密度、速度、その過剰さが、ただごとじゃじゃないことになっていって。
さらにもうひとつはやっぱり、キナ臭さを増す昨今の日本社会、時代に対する、監督の危惧とか危機感というのが、どんどん強まっていくということともシンクロして。要はさらにですね、その集大成であり、原点回帰であり、でも同時に完全な新境地、みたいな作品を、本当にあの『この空の花 長岡花火物語』以降、さらにね……だから、「ここに来てまたものすごい元気になってるんだけど?」みたいな。「しかも一作一作、また全然違う方向ですごいのを出してきているんだけど?」みたいな。ここんところもう、めちゃめちゃ元気だったんですね。
ただ、もちろんその一方で、2017年公開、『花筐/HANAGATAMI』のクランクイン前にですね、肺がんがステージ4まで進行されていて、余命3ヶ月宣告を受けたりなんかしてて。なので、その後にさらに今回みたいな、まあ尺も長ければスケールもデカい、みたいな作品を作り上げてしまうというそのバイタリティーには、本当に圧倒されてしまうわけなんですが。ともあれ、この今回の『海辺の映画館』、約20年ぶりに、やはり「大林映画といえば!」というね、ご自身の故郷・尾道での作品ということで。まあついに……要するに監督的にもやっぱね、「最後に尾道で撮るぞ!」っていうのがあったんでしょうし。
あと、主人公3人の青年たち。まずあの、厚木拓郎さん演じる馬場毬男という……これ、要はこの馬場毬男という名前は、イタリアの怪奇映画の名匠、映画監督のマリオ・バーヴァのもじりで。これ、大林さんご自身が、『HOUSE ハウス』の時に、この馬場毬男っていう名前でデビューしようとしていた、っていうのはこれ、有名な話なんですけど。要はマリオ・バーヴァが好きすぎて。で、さっきも言った自伝的作品、『マヌケ先生』という作品で、幼い馬場毬男を演じているのが、まさにその同じ厚木拓郎さんなので。要は早い話がこれ、完全に大林宣彦さん、ご自身の投影なわけですね。
で、他の2人もそうなんですね。細山田隆人さん演じる、フランソワ・トリュフォーならぬ鳥鳳介とかね。細田善彦さん演じる、ドン・シーゲルならぬ団茂とかですね。要するにまあ、ちょっとダジャレなんですけども。おそらくはそれぞれにやはり、大林さんご自身の、青年期なりの一側面が託されたキャラクターたちであって。しかもそれは同時に、作中での現在である2019年、つまり、今の若者たち、観客でも同時にある、というですね……つまりその、映画を通じて学び、成長した大林さん自身の感覚を、現代の観客に追体験、体感させるような、そんな役割を担っている、という風に言えるんじゃないでしょうかね。
■時間軸をシームレスに行き来し、「ヒントンバトルさーん!」とか勝手なことを始めたりする
まあ先ほどのね、山本匠晃さんの感じたことっていうのはまさに、それを裏付けていますよね。あるいはその、尾道三部作のヒロイン名が、役名として付けられてたりするわけですけど。要はこの、こういう青年期の映画体験とか、青春期のいろんな体験、考えたこと、感じたことみたいなことがあって、あれらの尾道三部作のヒロインとかが生み出されてきたんだ、という。
要するに、過去作を未来から照らし返すような、そういう効果があるような作りになっている。あるいは、『さびしんぼう』をね、セルフオマージュするような瞬間があったりするのも、こういう体験を経てるからああいう作品が作られたんだ、っていうことで、未来から過去作が……過去作が今度は未来に来るっていうか、時間軸がまたシームレスに、逆になっているような感覚になってるわけですね。
で、もっと言えばですね、その高橋幸宏さん演じる爺・ファンタっていう、なんだ?っていうようなキャラクターとか(笑)、あとは小林稔侍さん演じる映写技師とか、あと犬塚弘さん演じるあのお爺さんとかも、全部、大林宣彦さんの化身、と言えるわけですよ。で、さらにはもちろん、大林宣彦監督ご本人も、広中雅志さんのナレーションや、あるいは本人の肉声、非常に特徴的なあの肉声、さらにはあの謎の老ピアニストの背中、という形で、全編に現われてきたりする。
で、さっきメールにあった通り、いきなり「ヒントンバトルさーん!」とか、観客の大半が「えっ、何の話?」っていうようなことを、また勝手に始めたりする、っていうね。もうオープニングから何重にも重なり合ったあの感じとかで、いきなりクラクラさせられる、っていう感じなんですけど。まあ、かように語りの水準が、突然メタ的になったりして、どんどんどんどん変わっていくという、その語りの水準が変わっていく作り。近年、そこがさらに加速している、っていうのはまさに、大林映画あるある、クラクラさせられてすごい醍醐味なあたりなんですけども。
■過剰な手数の多さで登場人物も、「あれ? 何の話だったっけ?」
主人公の青年3人がですね、まあその映画の中に入ってしまう。で、その中で、近代の戦争の歴史を、江戸時代、そして明治維新……戊辰戦争とかからね、順に──まあ、順でもないのがちょっと時折ややこしいんですけど(笑)──まあ辿っていく、という。これ、あの『映画芸術』に載っている脚本協力の小林竜雄さんという方の文章で、たとえばあの宮本武蔵のくだり、ちょっと僕はよく意味がわかんなかったんですけど、これがどういう意味なのか、というあたり、この小林竜雄さんの文章でようやくわかりました。
要は、戦時中に吉川英治のあの小説が、ものすごく勇ましい小説っていうことで、若者たちのバイブルだった、というのを踏まえたものだったという。だからあの順番で入ってくる、っていうことなんですけど。はい。で、とにかくその日本の近現代史、戦争史を辿っていくという。それでその都度、特にその男たちの暴力性、独善性の犠牲となっていく、女性たちと出会い……まあ、ここも女性像、男性像というのが、たしかに古風ではあるけど。僕はやっぱり、さっきから言っているように、古風なりの誠実さを持って、古風なりの真摯さを持って、描いていると思う。
もちろんその、時代の限界というのがありますから。そこから先は、我々がバトンを受け取っていくことなんでね。そこはひょっとしたら、その大林さんの時代的限界ということで、我々が認識すべきところかと思いますが。とにかく、その犠牲になった女性たちと出会い、そんな悲惨な歴史を変えようと、若者たちの意識が変わっていく、という基本設定があるわけですね。それが非常に、その基本設定構造は、すごく分かりやすく中心にあるし。
なおかつ、その個々の女性たちとのエピソードというのは、それぞれが割とストレートなメロドラマなんで。要はその中心軸……映画の中に入った人たちが、1個1個時代を辿りながら、映画の中で歴史を学んでいく。で、その中で出会った女性たちの悲惨な思いというものを目の当たりにして、歴史を変えようと頑張っていく、というのが、割とストレートなメロドラマとしてオムニバス形式で描かれていく、っていう。その基本線を意識していれば、実は意外と入ってきやすい話でもあるかな、という風に思っております。
で、とはいえその語り口はやっぱり、縦横無尽の大林節でございまして。前の場面の映像やセリフがね、一種ダジャレ的にリピートされたりとか、あるいは伏線になってたりとか。とにかく、手数が異常に多いわけですね。なので時々、「あれ? 何の話だったっけ?」って……登場人物も「あれ? 何の話だったっけ?」ってなっていたりする(笑)、っていうこともしばしばあるわけなんですが。でも、登場人物にそれを言わせてるっていうことは、大林監督もそんなことは百も承知で作ってる、ってことなんですね。
あとは単純に、そのいろんなジャンルのテイストが味わえて楽しい、という、まさにその玉手箱的な喜びに満ちた映画でもありまして。最初の方のね、ミュージカルシーン。特に僕は、あの『鴛鴦歌合戦』的な、あの和風ミュージカルシーンとか、すごくウキウキしたし。しかも、そこにあの幕末・戦中の戦争の予感、狂騒みたいなものも、背景としてシームレスに描いてるあたりも、やっぱりスリリングだし怖いし、というあたりだし。
■知識への入口がそこら中に用意されている
あと印象的だったのは、『肉弾』とか『独立愚連隊』といった、岡本喜八作品オマージュがね、結構強いな、とかね。あとは、手塚眞さんが小津安二郎。そして犬童一心さんが山中貞雄を演じるっていう ……要するに、その戦前、戦中、戦後の日本映画史と、70年代自主制作映画シーンっていうのを重ねて語る、というような作りも、これは大林宣彦しかできない、許されないという語りであろう、とかですね。
あとは、なぜか直接タイトルを挙げず、ちょっとタイトルを伏せてましたけど、あのフランク・キャプラの『失はれた地平線』という、1937年の非常に数奇な運命を辿った作品があって、あの『失はれた地平線』への思い入れを語るくだりなんか、非常に印象的でしたね。あそこで語られている映画は、フランク・キャプラの『失はれた地平線』という作品ですね。
で、当然その、歴史的な情報もこれでもかとばかりにね……これ、ちょっと(みなもと太郎先生の一大歴史マンガ)『風雲児たち』ばりに盛り込まれている。要するに、「この話をするにはこの時代まで遡らないと……」っていう、この感じが僕はちょっと、(『風雲児たち』と)通底するイズムかなと思いましたけども。たとえば、「靖国神社っていうのはそもそも……」みたいな、ちょっとした一言で、たとえば見た人は、「あれ? どういうことなんだろうね?」って調べるじゃないですか。僕もそれで改めて調べて、「ああ、そうかそうか。そうだったな」っていう感じで、元々は長州のために……っていうような感じのところが学べたりするとか。そういう、要するに知識への入り口が、そこら中に用意されてる作りでもある、っていうことですね。
■こんな映画をフィルモグラフィーの最後に残せるのも大林宣彦だけ!
またその、大林映画の常連たちが、オールスター的に次々と出てくる、というこの楽しみ。オールスター的に出てくるから、これがまた走馬灯感を増してるんだけど。個人的にはあの、大林映画の山崎紘菜さん、本当にいつも一際輝いているなと思ってたので、これ、(大林宣彦監督による)山崎紘菜さん作品をもっと見たかったな、というのもありますし。今回、実は初参加だという成海璃子さん。これ、初顔合わせとは思えない相性の良さ、素晴らしかったですね。こちらももっと見たかった。
あと、あの吉田玲さんというね、非常に「これぞ大林映画のヒロイン!」というたたずまいですけど。彼女はだって、現代の少女なわけで、たぶん普段は、スマホとかいじりまくっているわけでしょう?(笑) なのにあのたたずまいって、本当にやっぱり大林映画の見出し力であり、演出力というのを、すごく感じるあたりでございました。主人公の3人の青年たちを演じられたお三方とも、本当にお疲れ様、というしかない、文字通りの八面六臂の活躍・奮闘ぶり。特に厚木拓郎さん。やっぱり大林映画でしか見られないタイプの青年像を体現できる、本当に稀有な存在だな、という風に改めて思いましたし。
などなどですね、ただでさえ情報量の多い大林映画……なにしろ、劇中で演奏されたり歌われたりする曲を、劇伴、BGM、それがうっすら追っかけて、それと大量のセリフとSEとかが、同時に鳴っていたりするわけですよね。要するに監督が、今、入れられる全てをこの一作にぶち込んだ、というものであって。その全てに言及することはもちろんできないし、そんなものを聞く暇があったら、ぜひ今すぐ映画館に走って、この作品そのものに触れて、飲み込まれ、ガツンと食らってほしい、という風に私は思います。
その一方で、しょうもないギャグね……オナラネタとかいっぱい入っていたりするので(笑)、ご安心ください。しょうもないところもいっぱいあります。ひとつ言えるのは、こんな映画を撮れるのは大林宣彦だけ! というのはいつものことだけど、こんな映画をフィルモグラフィーの最後に残せるのも大林宣彦だけ! ということだと思います。
なにしろ、これまでの全ての大林映画が本作によって照らし返され、別の意味を持って輝きを放つ、という。そういうさらに大きな入れ子構造を周到に仕掛けているという、そういう作品でもあるという。大林さんの新作はもう見られないけど、過去に新しい……大林宣彦の「新しい」映画が、過去にいっぱいある、ということ。これぞ、大林宣彦的時間感覚であり、映画観でもあろう、ということですね。
■長い間、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました!
そして大事なのは、映画を見まくって成長をした主人公たちが、最後、表の世界に出て……つまり、大林宣彦青年が表の世界に出て、やがて映画を作って、世界に働きかけていくように、後は我々観客1人1人が、世界に対して、そして歴史に対して、何をしてゆけるのか? 大林さん、最後に力強く言っていました。「各々がやれることは、かならずや、ある!」と、力強くおっしゃっていただきました。その言葉を受けて、あとは私であり、皆さんであり、我々の話である、ということでございます。
ということで……大林宣彦監督。本当に長い間、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました! ぜひぜひ劇場で……今、劇場で見ないと。先ほどのメールにもあった通り、劇場で見てこその作品です。『海辺の映画館』、ぜひぜひウォッチしてください!
(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』です)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
(ガチャパートにて)
宇多丸:いや、あれですね。大林さん、監督に、手紙を渡せた気分で。つくづく、やれてよかったです。

◆8月21日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20200821180000