TBSラジオ「コシノジュンコ MASACA」毎週日曜夕方5時から放送中!(5月8日(日)放送分)

田嶋幸三さん(Part1)

1957年生まれ。小学生の時に東京オリンピックでサッカーに興味を持ち、高校3年生のときに全国高校サッカー選手権大会を制覇。

大学3年の時に日本代表に選出し、1983~1986年まで西ドイツに留学してサッカー指導者ライセンスを取得。2001年にU-17日本代表の監督に就任し、U-17ワールドカップ出場に導きました。2016年に日本サッカー協会第14代会長に就任。

出水:1957年熊本のお生まれですが、どんなお子さんだったんですか?

田嶋:熊本といっても天草という島で生まれて、5歳で東京に引っ越してきたんです。馬事公苑の近くで、用賀小学校、用賀中学校でサッカーに出会いました。ちょうど東京オリンピックが小学校2年生の時かな? 駒沢にサッカーの試合とか見に行ったりしました。東京に出てこなかったらサッカーに出会わなかったかもしれないです。

出水:野球少年だったかもしれないんですね(^^)中学3年生の時に関東大会で優勝して、浦和南高校時代にはキャプテンも務めています。

JK:サッカーで浦和といったら強烈ですよね!

田嶋:僕らの時は埼玉か静岡か広島でしたから。でも本当は体育の教師になりたくて。そのころ竜雷太さんとかの青春ドラマはあったけど、プロはなかったですから。サッカー続けようと思ったら、体育の教員になってサッカーを続けたいと夢見ていました。

JK:Jリーグになって本当に良かったですね! そこから日本のサッカーは始まりましたよね。

田嶋:その前と後では大違い。まさに1993年に始まり、1994年にドーハの悲劇があって・・・あの辺から僕らのステップになったんじゃないかなと思います。世界を目指そうと思うようになったのがそのころですよ。僕らのころは世界を目指そうなんて思ってなかったから。

JK:いろんな刺激になったり、訓練になったり、経験があったり。あれから一般サポーターも本気になってきたわね。

出水:現役を引退したあと、西ドイツのケルン大学に留学しましたが、西ドイツを選んだのはなぜ?

田嶋:当時1974年にワールドカップで優勝し、その後もずっと上位にいるのが西ドイツだったんです。いくつか誘われたチームがあったんですけど、奥寺さんがいらっしゃるケルンに留学させてあげる、という話に惹かれて古河電工に行きました。奥寺さんがちょうどチェルシー・ケルンにいらして、2か月間留学させてもらいました。プロとの差を感じた2か月間だったんですけど、森の中にあるきれいな芝生の練習場と、きれいな練習場。走るときにはみな木漏れ日の中を走っていく・・・全然環境が違うんです!

JK:エレガントですね~!!

田嶋:日本でプレーしてる場合じゃない、早くドイツに来てサッカーしたい!と思ったんです。

入社して1年で、こんな失礼な話はないんですけど(^^;)日本では芝のサッカー場はあまりなかったですし。きれいなクラブハウスもない時代でしたから、ここで勉強したいなぁって。申し訳ないですが、3年後には大学院を受け直してドイツへの留学を決めました。

JK:田嶋さんにとって人生のマサカは?

田嶋:自分が会長でいるのがマサカだと思っています。自分は体育の教員になってサッカーを教えたいなと思っていた、代表監督になったときはワールドカップに出たいなと思っていたんですけど、UAEで(U20の)合宿をしていた時に川渕さんから電話がかかって来て、「そっちじゃない方にきなさい」と言われて。

JK:最初は専務理事?

田嶋:はい、技術委員長になり、理事になり、専務理事になった。そこに軌道を変えるというところでは自分の中では迷いがありました。その時はまさか会長になるとは思っていないし。

JK:でも世界を経験していて、教えることもしていて、ぴったりじゃないですか?

田嶋:そんなこともないんですが、コロナがあったりウクライナがあったり、アフガニスタンやシリアなどいろんなことがある中で、与えられたポジションでやるべきことをやったというのは自分の中ですごく大きな財産になりましたし、岡野さんや川渕さん、長沼さん、岡田監督やトルシエ監督、ハリルホジッチさん、西野さん、森保監督など、多くの指導者と出会って自分も学べましたね。抽選会場でハリルホジッチさんと会って、いろんなことがあって訴えられたりもしたんですけど(^^;)握手してハグしてよかったね、と。ある意味笑顔で握手できたことは良かったなと思いました。

出水:日本サッカー協会は去年9月に創立100周年を迎えました。

100周年アニバーサリーユニフォームを持ってきていただいたんですが、胸元に大きく日の丸が刺繍されて鮮やかですね!

田嶋:1919年にイングランドから銀杯をいただくんです。それをもってサッカー大会をやってください、と。大英帝国の発展のためにサッカーを利用していたのかもしれませんが、その2年後に嘉納治五郎さんから言われてサッカー協会を作ったのが1921年。初めての大会にこのユニフォームを着ていくんですけど、なぜ青なんだろうか? 青は「青春」、黄色は「公正」というのが当時の書物に書かれているんですが、もうひとつ、当時の代表チームに東京帝大の選手が多くいまして、東京帝大がこの色だからと言う人もいます。諸説あるんですが、こういうブルーで始まったのが日本代表です。

JK:ジャパンブルーとも違う「歴史ブルー」ですね!

田嶋:これを着て昨年の8月に試合をすることができました。100年前のユニフォームを着てプレーする、というのをよくヨーロッパのクラブではやるんですよ。そういうことが出来たのも100年の歴史です。設立後、東京大震災があり、第2次世界大戦があり、さまざまなことを乗り越えて先輩たちが引き継いでくださった。トーチを渡されたわけですから、僕らもそれをしっかりつないでいきたいという思いもあり、身の引き締まる思いで僕も去年このユニフォームを着ました。

出水:2020年には千葉の海浜幕張公園内に日本サッカー協会運営のサッカー施設「高円宮記念JFA夢フィールド」がオープンしました。これは悲願だったそうですね?

田嶋:男女代表チームを中心に、指導者養成や審判、サッカー協会の中枢の人々が使う目的で作りました。

まずは成田と羽田に近いということ、ワールドカップの準備をするためにそこで練習ができるとか、そういう施設にしました。どこの強豪国も、ドイツもフランスもイタリアもスペインも、そういう施設をもってるんですよ。

JK:やっとなんですね、日本は!

田嶋:悲願だったところをようやく作ったんですけれど、オープニングが2020年4月で、まだ皆さんにお披露目できていないんです! ジュンコさんもご招待して見てほしいですね。ロッカールームにはヤタガラスのマークもあり、入るとやりたい!っていう気になる施設にしてるんです! 今年もうすこし落ち着いたら招待させてください。

出水:一般の方も入れるんですか?

田嶋:外からですが、近所の方は犬の散歩をしながら応援してくださるんです。東京オリンピックの時は近くのマンションで皆さん日の丸を掲げてくださって涙が出ました。フットサルやビーチの練習場もあって、すぐ横には子供たちが試合できる人工芝のサッカー場も2面あって、すべてが揃ってます。ケガした選手も海外から帰ってきたらそこでリハビリできる。温浴施設もあります。東京湾越しに夕日が見えるんですよ、富士山も見える。

JK:4期目の会長になられて、次の100年の目標は?

田嶋:4期が我々の任期の制限で、最後の任期になるんですけど、この2年間コロナで何もできなかったんですよ。サッカーでいえば、ずっとディフェンス、ディフェンスをしていた。

今度は攻撃に転じる時だと思ってますし、カタールを突破して、ワールドカップに向けたプランをしっかり考えています。それから世界に通用するプレーをやっていかなければならないし、ピッチの中ではシーズン制をどうしていこうか、ピッチの外では女性の社会進出。WEリーグは女性の社会進出を謳っているんですが、クラブの経営層に女性が入り、職員は半分以上。選手たちにもそういう意識をもってやってもらいたい。LGBTQの大会を始めたいとも思っています。

JK:革命ですね! お休みの日は何をしてるんですか?

田嶋:散策が好きなので歩いたり、食べるのが好きなので料理をします。

JK:えっご自分で?! どんな料理を作るの?

田嶋:季節の魚をさばいて、香草焼きにしたり。凝ったことはできないですけど、簡単な料理はしますね。

JK:でも世界中歩いているから、世界のお料理ご存じだものね。

田嶋:でも日本料理が一番好きですね。世界各国の和食屋さんには必ず行きます。いろんなところで必ず頼むのが、鶏の唐揚げ。

世界唐揚げ選手権じゃないけど、どこの唐揚げが一番美味しいかと比べたり。

JK:どこが一番美味しいですか?

田嶋:スイスのチューリッヒのレストランで、そこの唐揚げは日本のより美味しいんじゃないかっていうくらい(^^) FIFAの会議がそこであるので、いく時は必ず食べます!

OA曲
M.夜空ノムコウ / スガシカオ

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