日本の鉄道誕生から150余年。この間、実物の鉄道、さらにはさまざまな鉄道趣味も、「レジェンド」と呼ばれる先人の力で発展・進化してきたことは、あらためて申し上げるまでもないでしょう。
原さん手づくりの模型やコレクションを収蔵する、横浜市の「原鉄道模型博物館」が2012年のオープンからこの夏で12周年を迎え、2024年7月21日に記念式典が開かれました。原さんの交遊関係の広さを物語るように、京阪ホールディングス(HD)の加藤好文会長、JR九州の青柳俊彦会長、京浜急行電鉄の原田一之会長ら鉄道界トップも出席したセレモニーでは、「1000両を超す原さんの精巧な模型は、もはや鉄道模型という以上の『小さな本物』」の賛辞が数多く聞かれました。
(大手企業の役員も務められた原さんは「原信太郎氏」の敬称がふさわしい方ですが、本コラムは親しみを込めて「さん付け」で紹介させていただきます)
取得した技術特許300件
原さんは1919年東京生まれ、2014年7月に95歳で亡くなりました。原鉄道模型博物館の開館時は存命で、初代館長を務めました。
最初に企業人としての原さん。慶應義塾高等部出身の慶應ボーイですが、卒業したのは東京工業大学。戦前の慶應には、工学系の学部・学科がありませんでした(今は理工学部があります)。
入社したのは、事務機メーカー・コクヨ。常務、専務、グループ企業・コクヨメーベルの代表取締役などを務めました。コクヨでは、立体自動倉庫やオフィス家具自動製造ラインの開発に携わり、300件を超す技術特許を取得した根っからの技術屋です。自動倉庫に鉄道信号の理論を応用するという余談もあります。
台車のバネが可動
ここから鉄道(模型)人としての原さんです。「せんだんは双葉より芳し」。戦前の話ですが、品川の電車区に毎日のように電車を見にくる子どもがいました。これこそ幼少時の原さん。入出区する電車を眺め、駅員に電車のリベットについてレクチャーして驚かれたこともありました。
最初の模型製作は小学生時代、1931年のフリー(実物のない自由形)電気機関車(EL)です。
現代の鉄道模型は、本物の150分の1サイズのNゲージ(線路幅9ミリ)と80分の1サイズのHOゲージ(16.5ミリ)が主流。しかし、原さんが製作したのは32分の1の1番ゲージ(45ミリ)でした。今のように豊富な部品はありません。台車もパンタグラフもレールも、すべては手づくりでした。
技術の結晶といえるのが台車。原さんの模型はバネ類が可動します。もしも乗れたなら、乗り心地は良好だったはずです。
ブッフリ式のED54
原さんの最高傑作の一つとされるのが、1971年製作の7000形電気機関車(ED54)。戦前の国鉄(鉄道省)が東海道線電化でスイスから輸入したELで、ブッフリ式(ブフリ式、ブーフリ式とも)と呼ばれる動力伝達方式が特徴でした。
通常のELは台車内にモーターを収めますが、ブッフリ式は台車から独立させて大型モーターを架装し、特殊な歯車やクランクで動力を伝えます。
原さんの7000形は、ブッフリ式を忠実に再現。多くの鉄道関係者を、「模型というより、もはや小さな本物だ」と驚かせました。
伝説の「或る列車」をスケッチ
原さんをめぐるエピソードは尽きませんが、本コラムで注目したのは「或る列車」です。JR九州は2015年、新しいD&S(デザイン&ストーリー)列車として登場させましたが、発想の原点は、原さんが製作した先代の「或る列車」。同名の客車列車です。
ストーリーは半ば伝説化された部分もあるようですが、もとは九州鉄道がアメリカに発注した豪華列車。ところが日本への到着時、九州鉄道は国有化されてしまい、一度も営業運転されることなく車庫に留置されたままになりました。九州鉄道の国有化は1907年で、発注は1900年代初頭とされます。
「九州鉄道ブリル客車」が発注時の名称でしたが、戦前の鉄道誌で紹介された「或る列車」で呼ばれるようになりました。
行き場を失った初代は、1両ずつ切り離され、各地に事業用車などとして配置されました。関東では田町の操車場に配備され、それを少年時代の原さんがスケッチ。のちの模型製作のきっかけになりました。
原さんが「或る列車」の模型を完成させたのは、比較的最近の1999年。というのも、JR九州のD&S列車でも話題になったステンドグラスの再現などに長時間を要したから。細部は資料がなく、想像で補いました。
物語は続きます。JR九州の青柳俊彦会長(当時は社長就任前)は、オープン間もない原鉄道模型博物館を訪れて、「或る列車」のストーリーに心を動かされます。〝2代目D&S列車〟の製作を決断したのでした。
日本と世界の車両が並ぶ理想郷の鉄道
ところで、原さんが設立した架空鉄道会社の社名は「シャングリ・ラ レイルウェイ」。原鉄道模型博物館のジオラマも同名です。
原さんの長男で、現館長の原丈人さんは記念式典のあいさつで、信太郎さんが鉄道名に込めた思いを明かしました。
ご存じの方も多いでしょう。
そのユートピアとは対照的に、ベテラン鉄道ファンが「暗黒の時代」と感じたのは戦時中です。戦時中は駅での写真撮影はご法度。駅でメモを取っていたファンが、スパイの疑いをかけられたこともありました。
そんな時代に原さんが夢見たのは、国境に関係なく、日本や世界の車両が同じレールを走る理想郷のような鉄道。原丈人館長は、「人々の豊かさや平和に資するため、原鉄道模型博物館はこれからも歩みを続けます」と決意を述べました。
ここから、原鉄道模型博物館の香港進出の話題。「原鉄道模型博物館香港駅」は香港の商業街・九龍地区「新港中心(シルバーコード)」に2024年夏以降誕生予定です。原さんが生前に製作した鉄道模型をモチーフに、インテリアをデザイン。店内では、飲食や喫茶が可能で、車窓のディスプレイには、東海道線の車窓風景が映し出されます。
架線集電で信号システムも可動
ラストは原鉄道模型博物館の基本情報。博物館があるのはJR、京急などの横浜駅から徒歩圏の横浜三井ビルディング2階。
運営は三井不動産、鉄道模型のメンテナンスは、模型ファンにおなじみの天賞堂が担当します。
いちばんテツモパークは架線集電で、信号システムも本物と同じ。ファンの皆さんは、ぜひチェックしてみてください。
なお、本コラムは原信太郎さんの著書で、2024年に18年ぶりで再版された「スーパー鉄道模型 わが生涯道楽」(講談社刊)を一部参考にしました。
記事:上里夏生