第1次大戦後半にイタリアが開発した国産飛行機S.V.A.シリーズ。高速性に優れていたため、偵察機や爆撃機、練習機など幅広く使われ、1920年には日本にも来ています。

そしていま、自衛隊の浜松基地にも同型機が。その理由をひも解きます。

イタリア待望の国産高速機の誕生

 静岡県にある自衛隊の広報施設「航空自衛隊浜松広報館」、愛称「エアーパーク」に、1機だけイタリアの国籍マークを付けた複葉機が保存・展示されています。この機体の名は「S.V.A.9」。第1次世界大戦中に開発された複葉機で、自衛隊ではもちろん運用していたことはありません。

 しかしS.V.A.9は、日本にとって非常にゆかりのある機体で、実はアニメ映画『紅の豚』の登場人物にも関係しているというハナシも。

いまから100年以上前の複葉機と日本の奇妙な縁について見てみましょう。

『紅の豚』キャラが実在? 100年前の日本を沸かせたイタリア...の画像はこちら >>

航空自衛隊浜松広報館で展示されているS.V.A.9型機。木製/羽布張りのオーソドックスな設計であったが、合板張りの胴体はシンプルな構造ゆえに頑丈で、長距離飛行を影で支えていた(柘植優介撮影)。

 そもそもイタリアは、第1次世界大戦に米英仏を始めとした連合軍側についたものの、参戦は途中からでした。飛行機は第1次世界大戦では最新兵器で、各国とも持てる技術をつぎ込んで次々と新型機を開発していたため、イタリアは爆撃機こそ自国製のものがあったものの戦闘機開発は遅れていたことから、隣国フランス製のニューポール17型やスパッドS.VII型などを輸入またはライセンス生産し、主力機として陸軍航空隊で使用していました。

 そうしたなか、国内のアンサルド社で新型の独自戦闘機の開発が始まります。

試作機は後方に細く絞った木製合板構造の機体や、前方から「W」字型に見えるワーレントラス構造の翼間支柱が特徴的な複葉機で、1917(大正6)年3月に初飛行に成功。出力205馬力の直列6気筒SPA 6A型エンジンを搭載した同機は最高速度220km/hを記録し、国内のフランス製戦闘機や敵オーストリア・ハンガリー帝国(当時)のアルバトロスD.III型戦闘機よりも優れた性能を叩き出しました。

 機首に7.7mm機関銃2挺を搭載して上昇力や航続力にも優れた試作機は、次期戦闘機として期待されて2人の開発設計者の名前、ウンベルト・サボイアとロドルフォ・ベルドゥツィオの頭文字を取ってS.V.A.(Savoia Verduzio Ansaldo)1型と命名されます。

S.V.A.シリーズのたび重なる改良

 しかし、S.V.A.1型はフランス戦闘機と比べて取扱いや整備が複雑であったため、量産タイプのS.V.A.2型は高速性能を活かした偵察機として、S.V.A.3型は対ツェッペリン飛行船の迎撃機として用いられています。その後、開発されたS.V.A.4型は再び偵察機として使用されたほか、シリーズの決定版といえるS.V.A.5型が誕生、戦闘爆撃機として使われました。

 これらの技術を基に翼面積を拡大、燃料タンクを増大して複座にした無武装のS.V.A.9型が、練習機や偵察機として開発され、さらに前方後方に機関銃各1挺を搭載した武装偵察機タイプのS.V.A.10型も作られました。

『紅の豚』キャラが実在? 100年前の日本を沸かせたイタリア複葉機の縁 なぜか空自浜松に保存

1920年2月14日、イタリア初の飛行場であるローマのチェントチェッレ飛行場から極東飛行に向けて飛び立つ直前のS.V.A.9型機(吉川和篤所蔵)。

 1918(大正7)年に大戦が終結すると、軍用機の需要は一気に減りましたが、S.V.A.9型は汎用機として1928(昭和3)年まで生産が続けられ、アルゼンチンやブラジル、中華民国など、各国に輸出されます。

 一方、イタリアでは1920(大正9)年、極東方面への国際空路の開拓を目的に、自国機を飛ばすことが計画されます。参加機としてはS.V.A.複座型5機とカプロニ爆撃機各型4機、ほかに予備機としてS.V.A.9型複葉機2機と飛行士4名が集められます。この予備機の乗組員として参加したのが、ジーノ・マシェロ中尉組とアルトゥーロ・フェラーリン中尉組で、先遣隊として2月14日に両機はローマを出発したのでした。

 このフェラーリン中尉こそ、アニメ映画『紅の豚』で主人公ポルコ・ロッソの旧友として登場する空軍将校フェラーリンのモデルになったのではないかといわれる人物です。

これについては明言されていないため、モデルであるか否かは不明であるものの、同名の空軍パイロットという点では一致しています。

 彼はこの極東飛行で来日を果たし、日本各地で熱烈な歓迎を受けたのです。

操縦士フェラーリンの極東飛行への挑戦

 しかし極東飛行は、当初から順調ではありませんでした。マシェロ機は国内でエンジン不調となり緊急着陸、アルバニア経由で2月16日にギリシャに到着します。次に向かったトルコで、先んじて航路調査用に出発していたカプロニCa.3型機と再会しますが、19日にマシェロ機は再び冷却器の不調にあいトルコ領内に緊急着陸しました。

 一方、フェラーリン機は、イラクのバグダッドでは飛行中に反英アラブ人から銃撃を受けるといったこともあったものの、23日にはバスラへ向かいます。

その頃には先発調査のカプロニ機を追い抜いて一番乗りになりました。

『紅の豚』キャラが実在? 100年前の日本を沸かせたイタリア複葉機の縁 なぜか空自浜松に保存

極東飛行を行ったフェラーリン中尉のS.V.A.9型機。極東飛行型は上翼上面の増設タンク等により燃料330リットルを搭載、通常型の倍にあたる8時間あるいは1000km弱の飛行が可能であった(吉川和篤作画)。

 とはいえ、フェラーリン機も決して順調な飛行ではありませんでした。たとえば現パキスタンのカラチへの飛行中、砂嵐に遭遇したため緊急着陸をすると、そこで反英現地人に取り囲まれる、なんてことがありました。ところが、尾翼のイタリア三色旗を見た現地人は、第1次世界大戦でドイツと同盟を結んでいたブルガリア国旗と勘違いして2人を釈放、あまつさえ機体の修理まで手伝ってくれたといいます。

 こうした数々のトラブルを経ながらもフェラーリン機はカラチでマシェロ機と再会し、インドのデリー経由後に到着したカルカッタでは本隊を待つ間に機体を整備し、搭乗員達も休養を得て、いよいよ冒険飛行も後半戦というところまで至りました。

 ところがこの頃、本隊の5機は故障や事故で相次いで脱落しており、先回りしていた予備飛行隊2機4名がそのまま本隊の使命も引き受けることになります。3月31日、アキャブに向けて再出発した2機は、現ミャンマーのラングーン(現ヤンゴン)と現ベトナムのハノイを経由し、4月21日に中国の広東まで来ました。

日本での熱烈歓迎 浜松にあるS.V.A.9の正体

 広東ではマシュロ機、フェラーリン機ともに熱烈な歓迎を受けたものの、上海へ向けて離陸という時に、マシュロ機は樹木に引っ掛かり水田に墜落、乗員2人は無事だったものの機体は全損してしまいます。

 そこでフェラーリン機が先に上海へ飛び、マシェロ達は船で向かい、そこで予備機を受取るということになりました。上海では中国側から、青島では日本側から、さらに北京でも中国側の祝宴を受けながら東京を目指しましたが、この頃には台風の影響もあって、この間の移動に20数日を費やしています。

 とはいえ朝鮮半島を経由して、5月30日に大阪、翌31日に各務原(岐阜)へと着陸した両機は、その日の午後に東京の代々木練兵場へ着陸、ローマから東京まで全行程約1万8000kmの大飛行を成功させました。

 なお、全行程は108日間かかったものの、飛行日数は27日間で飛行時間は累計112時間、計算上の巡行速度は160km/hとなります。しかもフェラーリン機は、他機と違い一貫して飛び続けたため、同一機による欧州~極東間の飛行に世界で初めて成功。その雄姿を見ようと代々木練兵場(現在の代々木公園)には20万人もの群集が集まりました。

 このような偉業を成し遂げたフェラーリンら一行は、大正皇后陛下への謁見を始めとして、祝賀会などに連日招待されたそうで、いかに歓待されたかわかります。彼らは6月16日に代々木練兵場を飛び立ち、日本国内で感謝飛行をした後、船で帰国の途についたのでした。

『紅の豚』キャラが実在? 100年前の日本を沸かせたイタリア複葉機の縁 なぜか空自浜松に保存

1920年5月31日、東京の代々木練兵場に到着した2機のS.V.A.9型機を讃えて発行された日本の彩色絵葉書。絵柄は同時着に見えるが、実際はマシェロ機に15分遅れてフェラーリン機は到着した(吉川和篤所蔵)。

 なお、世界で初めて極東への同一機飛行を成し遂げたフェラーリン機(S.V.A.9型機)は日本に残され、東京九段にある靖国神社遊就館で展示されていたものの、1945(昭和20)年5月の空襲で焼失してしまったため、現存していません。ただし、極東飛行50周年となる1970(昭和45)年に開催された大阪万博で、原寸模型がイタリア館において展示されました。

 これが万博終了後、日本に移譲。ということで、冒頭に述べた航空自衛隊の浜松広報館(エアーパーク)にあるS.V.A.9型機は、戦後イタリアが作ったレプリカです。

 ちなみに第2次世界大戦後、イタリアの航空会社アリタリア航空では、かつての大飛行の偉業を称えて自社のボーイング747と767旅客機各1機にアルトゥーロ・フェラーリンの名前を機首に描き、両機は世界を飛び回りました。