世界中で大ヒットしている「鬼滅の刃」。最大の敵、「鬼舞辻無惨」に会心の一撃をくらわせたのは、隊士が運転する3台の自動車でした。

影のヒーローとなったこのクルマとは一体どのようなクルマだったのでしょうか。

鬼舞辻無惨討伐で一躍ヒーローとなった車とは?

 世界中で大ヒットとなった漫画『鬼滅の刃』。人を食らう鬼が跋扈する大正時代を舞台に、剣士軍団「鬼殺隊」と鬼の戦いが描かれます。そのクライマックスとなる鬼殺隊とラスボス・鬼舞辻無惨との最終決戦で、あるクルマが重要な役割を果たします。

 無惨との決戦も最終局面、日の出が始まり、太陽に弱い無惨は日陰を求めて街を逃げ回ります。「日陰に入らせるなー!!」という指令のもと、隊士が運転するクルマ3台が無惨に激突。鬼殺隊らは足止めに成功し、無惨を朝日の元にさらし、見事に退治します。

 まだ自動車も少ないはずの大正時代、このクルマの正体は何だったのでしょうか?

鬼滅の刃ラスボス・鬼舞辻無惨に突っ込んだ自動車の正体は? 大...の画像はこちら >>

作品内に登場する自動車に似たフォード製小型車(画像:トヨタ博物館)。

 まず舞台となった時期ですが、作中に「47年前、慶応に捕まった」といった鬼のセリフなどから1912(大正元)年から1915(大正4)年ごろと推測されます。国交省の資料によると、当時の国民の自動車保有台数は、統計が始まった1907(明治40)年では16台、1913(大正2)年にはそれが892台、1915年には1244台となっています。当時は自動車が日本社会に導入され始めた、まさに黎明期という時期でした。

 もちろん、この年代には国産車はまだなく、輸入車ばかり。

フォードなどのアメリカ車や、欧州車も輸入されていました。ということは、鬼殺隊が突っ込んだのは日本に1000台ほどしかない貴重な外車だったことが分かります。しかも3台。なお激突直後に、無残にクルマは破壊されてしまいます。1000年の戦いに終止符を打つためとはいえ、当時の感覚からすれば大きな「犠牲」だったのではないでしょうか。

 気になるのが具体的な車種です。屋根やライトの形状、前輪から後輪にかけて一体となったフェンダー、そして生産時期から判断すると、この車はフォードのモデルT、通称「T型フォード」と最も近いことが分かります。

鬼殺隊はそんなにお金持っていた?

 T型フォードは1908(明治41)年に生産開始。エンジンは水冷式直列4気筒で、排気量は約2900cc。現在につながる大量生産方式の契機となったモデルで、実用的ながら価格水準は大衆の手の届く範囲ということで、当時の大ヒット車となり、わずか20年ほどで1500万台以上が生産されました。いわば、アメリカにモーターリゼーションをもたらしたクルマとも言えるでしょう。

 さてこのT型フォードの走行性能はどうだったのでしょうか。

最高速度はモデルによって違いますが、およそ65~70km/h。作品では「死ねェェ!!」と隊士がアクセル全開で衝突していますから、鬼舞辻無惨にそこそこのダメージを与えたことが予想できます。

 ところで、そもそもこのクルマは誰のものだったのでしょうか?

 もちろん前述のとおり、当時は富裕層しか自動車を持つことができませんでした。鬼殺隊を運営していた「産屋敷家」は資産があるという記述もありますから、鬼殺隊自体が所持していた可能性が高いです。

 1912(大正元)年には、上野駅前と新橋駅前で6台の輸入車による日本初のタクシーが始まり、その後東京駅などでも走り出しました。もしかしたらタクシーのオーナーが、当時入手も難しかった貴重なT型フォードを、世界を守るため鬼殺隊に提供したという可能性も考えられます。もしそうなら、隊士の慣れない運転をオーナーがヒヤヒヤしながら眺めていた…という裏場面もあったのかもしれません。

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