冷戦時代、ソ連に関するアメリカの諜報活動から漏れ伝わってくる情報のなかに「カスピ海の怪物」なるものが登場します。長らくそのニックネームばかりがひとり歩きしたソ連の特殊船舶「エクラノプラン」のたどった歴史を振り返ります。
2021年8月5日付の東京新聞Web版が報じたところによると、ロシアのアレクセエフ水中翼船中央設計局がロシア西部ニジニ・ノヴゴロド州で3日に行ったメディアツアーにて、サハリン州政府などが特殊船舶「エクラノプラン」を導入して、サハリン島と北方領土を結ぶ海上高速交通網の構築を検討している、とのことです。
「カスピ海の怪物」と呼ばれたエクラノプラン。写真はカスピ海におけるルン級の、3M80モスキート対艦ミサイル発射試験の様子(画像:ロシア国防省)。
「エクラノプラン」は1940年代からソ連で開発されていた地面効果翼機(WIG)と呼ばれるものの総称で、滑らかな地表面、水面上を超低空で飛行し、それによって得られる「地面効果」を利用して高速を発揮できる航空機と船舶の中間的な乗り物です。
ここでいう「地面効果」とは、翼状の物体が地面や水面近くを移動する際、それらのあいだの空気流の変化に物体が影響を受けるというもので、平らな床面にそっとアクリル下敷きを置いたときに見られる、スーっと滑っていく現象がそれに当たります。
WIGはあまり普及していませんが、本格的に実用化したのはソ連であり、そのエクラノプランは「カスピ海の怪物」というあだ名が有名になりました。
1967(昭和42)年、アメリカの偵察衛星がカスピ海に面するソ連のダゲスタン共和国カスピースク近郊で航空機のようなものを発見しました。大きな機体にもかかわらず、翼が小さくてずんぐりしており、機体にロシア語で試作船を意味する「KM」という表示とソ連海軍の旗のマークがあることなどから何らかの新兵器であることは想像できたものの、諜報機関でもこの機体が何なのかわかりません。西側でWIGはあまり知られていなかったのです。航空機なのか艦船なのかさえも判然としない新兵器は、諜報機関CIAの興味を引くには充分で、「カスピ海の怪物」と呼んだことでこれが後にエクラノプランの別名として定着しました。

ルン級エクラノプラン。上部の6本の筒は3M80対艦ミサイル、機首には8基のエンジンが見える(画像:ロシア国防省)。
1960年代初め、エクラノプランは当時のニキータ・フルシチョフ首相に認められ、党と軍の有力者であったウスチノフ国防相が後押ししたことで開発が進み、超高速輸送艦(機)A-90「オルリョーノク」とミサイル攻撃艇(機)ルン級を海軍に配備する計画が立てられます。
エクラノプランの利点と欠点 なぜ普及に至らなかったのかエクラノプランには「船舶には実現できない高速性」「航空機より燃費がよく積載量も多い」「超低空飛行なので敵のレーダーにも捉えられにくい」などの利点がある一方、「旋回する際バンク角によっては水面に接触するため、これを大きく取れず旋回性能が悪い」「安定飛行時の効率の良さに反して離水する際の抗力が大きく、離水のためだけに強力なエンジンが必要でデッドウエイトになる」などの技術的問題がありました。

1968年3月19日にアメリカの偵察衛星がカスピースクで撮影した、ルン級と見られるエクラノプラン(画像:アメリカ国家偵察局)。
また既存の艦船用の港湾設備は使えず専用の設備を建設する必要があるなど、運用には莫大なコストが掛かりました。生産も思うように進捗しませんでした。
1984(昭和59)年に推進役だったウスチノフ国防相が死去すると、まもなくエクラノプランの計画は縮小されます。そもそも使い物にならなかったのです。技術ファクターよりも政治ファクターが優先される、いかにもソ連の兵器らしい経緯です。
A-90は最大120隻、建造する予定でしたが、結局、建造されたのは4隻で 1979(昭和54)年からカスピースクの海軍基地に所在する航空隊へ独立飛行隊として配備されていました。しかしほとんど稼働することなく順次スクラップになり、ロシア海軍に引き継がれた最後の1隻は2006(平成18)年に除籍します。

A-90「オルリョーノク」。この艦番号26(MDE160)の機体はロシア海軍に引き継がれ、2006年まで在籍した(画像:ロシア国防省)。
ルン級は2隻を建造する予定でしたが、1987(昭和62)年に1隻のみ完成しカスピ海でトライアルが行われ、1991(平成3)年末には完了します。カスピ海艦隊の第236エクラノプラン戦隊に配備されますが、2001(平成13)年12月には除籍になっています。それから長く放置されたのち、2020年にダゲスタン共和国デルベントのパトリオットパーク展示用に引き取られ、現在ニジニ・ノヴゴロドの造船所で整備されているようです。
成功したとはいえないエクラノプランが果たした大きな役割ちなみに「WIGは結局、船舶なのか航空機なのか」という問題について、「海上における衝突の予防のための国際規則に関する条約」には船舶に該当するとされていますが、未確定部分も多く、国際海事機関が高速船の規則を基に法的扱いを検討中という段階です。かつてはソ連でVVA-14という「海面を滑空する能力を有し水上発進可能で通常の長距離飛行も可能な垂直離着陸機」も計画、試作されたことがあり、この問題の複雑さをうかがわせます。なお、ロシアでは独自のカテゴリーとして扱われ、エクラノプランとして適用される国内の法的規則があります。

モスクワのモニノ空軍博物館で展示(放置)されていたWIG試作機ベリエフVVA-14(左端)垂直離着陸試験を前に計画は頓挫した(2004年2月11日、月刊PANZER編集部撮影)。
2021年現在でもWIGの建造は行われており、個人で所有できる民間船もあります。アレクセエフ水中翼船中央設計局によると、民間船以外にもロシア軍やインドなどからの引き合いがあるそうですが、軍用に関しては一切、情報を出していません。

2021年5月15日撮影、ニジニーノヴゴロドのクラスノエ・ソルモヴォ造船所に入っているルン級。どのくらい修復が進んでいるかは不明(画像:Google Earth)。
「カスピ海の怪物」は、冷戦期CIAの諜報活動にもかかわらず正体がつかめず、謎のベールに包まれつつその「カスピ海の怪物」という名前だけが有名になって、ソ連の脅威を示すものとされました。
ロシアが日本と係争中(ロシアは係争中という立場はとっていない)の北方領土に、エクラノプランによる高速交通網を構築しようという話は、北方領土問題でロシアの主張をアピールするのが目的で、運用効率などを考慮すれば実現性は低いように筆者(月刊PANZER編集部)は思います。21世紀になっても「怪物」は、技術ファクターよりも政治ファクターを優先する戦略的役割を担っているようです。