いまから30年ほど前、中東で「骨折」「前見えず」「無線不通」という三重苦状態ながら、空母に無事帰還した伝説のパイロットがいました。しかも彼はその後、スペースシャトルで宇宙にも行ったとか。

あきらめずに生還した理由を直接、聞きました。

ペルシャ湾上空でF-14パイロットを襲った悲劇

 戦闘機パイロットの偉業といえば、本来の目的である空中戦での勝利だと一般の人はイメージするかもしれません。しかし、平時において戦闘機が空戦に参加することは稀(まれ)であり、それよりも多くのパイロットたちは無事に生還することを一番の目的としています。

 なかには訓練中に事故を起こし、パイロットが重傷を負いながらも機体を無事に着艦させ、自身と同乗する乗員を生還させたというレアケースもありました。

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アメリカ海軍のF-14「トムキャット」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。

 1991年11月13日、ジョー・F・エドワーズ・ジュニア少佐(当時。

以下エドワーズ氏)は、F-14「トムキャット」戦闘機を操縦して訓練に参加していました。場所は中東のペルシャ湾上空で、原子力空母「ドワイト・D・アイゼンハワー」から飛び立ち、高度2万8000フィート(約8800m)をマッハ0.9の速度で飛行中でした。

 その時、何の前触れもなしに爆発のような突発音が発生し、エドワーズ氏が乗るF-14のコックピット内部は急減圧の状態となります。同時にエドワーズ氏も強烈な風圧と衝撃を受けて負傷してしまいます。

 実はこの時、F-14の先端部分、レドーム(レーダードーム)と呼ばれる部品が脱落。それが風圧によって後方へと吹き飛ばされ、その際に機体上部のコックピット部分に接触。

音速手前の速度で風圧によって凶器となったレドームは、パイロットが座るコックピット上部のキャノピーを粉砕し、同時にエドワーズ氏と後方に座るRIO(レーダー要撃士官)が負傷したのです。

前見えず無線もダメ でも相棒救うため空母へ帰投

 この時、エドワーズ氏が追った怪我は、片腕の骨折と肺の損傷で、さらに右目も見えなくなっていました。コックピット正面のキャノピー前部も「落として画面の割れたスマートフォンみたいだった」(エドワーズ氏談)という状態になったため、前方視界は遮られた状態で、加えて酸素吸入用のマスクとそこに付いていた無線機まで剥ぎ取れてどこかへいってしまったそう。

 彼自身の怪我はかなり酷いものでしたが、緊急事態が発生したにもかかわらず、無線機が失われたことで、エドワーズ氏は外部と連絡する手段も喪失した状態でした。

「F-14トムキャットが一番好き」死にかけてもそう言える 生還した伝説のパイロットの“判断”
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F-14の事故から生還し、スペースシャトルのパイロットになったエドワーズ氏(布留川 司撮影)。

 戦闘機が緊急事態になった場合、射出座席を使って機外に脱出する方法があります。

しかし、彼は射出を試みることはしなかったといいます。「脱出は考えませんでした。バックミラー越しに後席を見ると、後ろに座っているRIOが負傷しているのがわかったし、私自身も出血していたから。この状態で周りに何もない海上へ着水するのは非常に危険でした」。

 機体を安定させるためにスロットルを下げて低高度まで降下。そして機体の状態を確認しました。

コックピット内部と自身は酷い状態でしたが、幸いなことに機体の操縦系統はまったく異常がなく、パイロットが重傷であること以外は、機体はしっかりと機能したのです。

 自分と同僚を生還させるために、エドワーズ氏は機体を着陸させることを決意します。しかし、最寄りの空港に無線交信ができない状態で戦闘機を下ろすのは難しいと考え、決断したのは慣れ親しんだ母艦である空母「アイゼンハワー」へ戻ることでした。

 この時、エドワーズ氏は無線での交信手段を失っていたため、母艦の「アイゼンハワー」に接近しても自分たちの状況を伝えることは無理な状態した。しかし、空母側は接近するF-14にレドームがなく、着陸装置とフックを下ろしている状況を目視で確認したことですべての事態を把握したとか。そして、エドワーズ氏が着艦できるように空母を風上に向けて進路変更してくれたそうです。

常にチャレンジ 遂にはスペースシャトルで宇宙へ

 とはいえ、空母「アイゼンハワー」の全長は東京タワーと同じ333mもあるため、風上への進路変更には約10分もの時間が掛かったとのこと。ただ、この間にエドワーズ氏は安全に着艦できるかを試すため、2回の模擬アプローチを実施。前部キャノピーはひび割れているため視界は遮られていたものの、ひび割れのスキマや、開いた穴から前方を見て操縦。そして、無事に着艦を果たします。

 その後、エドワーズ氏は事故での業績を称えられ、「飛行中において英雄的行為、もしくは格別の功績があった者」に与えられる殊勲飛行十字章を授与したといいます。

 目の負傷というパイロットとしては致命的な傷を負ったエドワーズ氏でしたが、彼のキャリアはここで終わりませんでした。

その後、1994年にNASAの宇宙飛行士に選ばれ、1998年1月にはスペースシャトル「エンデバー」のパイロットとして宇宙に飛び立ちます。この時の飛行は8日間と19時間にもおよび、約580万kmもの距離を移動しました。

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1998年1月に実施されたスペースシャトル「エンデバー」のミッションSTS-89のメンバー。エドワーズ氏はパイロット(写真下段の左端)として参加(画像:NASA)。

 ある意味でパイロットとして極致を体験したエドワーズ氏。操縦したF-14「トムキャット」もスペースシャトル「エンデバー」も、現在は双方とも退役しており、過去の栄光となってしまいましたが、その後も彼は海軍やNASAでの経験を元に航空産業でコンサルタントとして精力的に活動しています。

 このように常にチャレンジし続けるエドワード氏に、筆者(布留川 司:ルポライター・カメラマン)はF-14の印象について聞いたことがあります。そのとき彼は、次のように答えてくれました。

「F-14の操縦の難しさは状況によって変化します。ただ飛ばすだけなら簡単だけど、状況によってはそれが一変し、夜間着艦なんかは本当に大変でした」

 このように返してくれたエドワード氏ですが、同時に、「トムキャットは一番好きな機体」だとも。彼にとっては散々な目に遭った機体ですが、それとともに何ものにも代えがたいほど愛した機体でもあるようです。