MRJの初飛行で注目が集まっている日本の国産旅客機。昭和30年代に登場したYS-11も知名度が高いところです。

ただ、戦前においても日本が国産旅客機を開発、運航していたことは、あまり知られていないかもしれません。

戦後、断絶した日本の航空機開発

 三菱航空機「MRJ」。戦後初の国産旅客機YS-11以来、実に半世紀ぶりとなる国産旅客機の登場とあって、2015年11月11日(水)に行われた初飛行は大きく報道され、日本中の注目を集めました。

 日本は太平洋戦争敗戦後、武装解除の一環として軍事と不可分である航空に関する一切の活動を禁じられます。航空禁止令は1952(昭和27)年に撤廃されますが、日本の航空機開発の系譜は7年間におよぶ空白によって、残念ながらほとんど完全に断絶しました。

 1952年以降、アメリカから多大な技術援助を受けつつ、日本の航空産業はゼロからの再スタートを切りました。そして1962(昭和37)年にようやく、YS-11を初飛行させることに成功します。

 YS-11は“再スタート”からわずか10年足らずという経験不足もあり、実用化には成功するも商業的には失敗に終わりました。しかし、MRJはさらに50年の積み重ねの上に成り立っており、今度こそはと内外から大きな期待が集まっています。

 ただ、あまり知られていませんが、実は戦前の日本においても国産旅客機の開発が行われていました。

横浜からサイパン・パラオへ就航した大日本航空機

 1938(昭和13)年、逓信省から外局として独立した航空局はこのようなスローガンを掲げています。

「翼強ければ国強し」

 1920~1930年代は「航空の黄金期」として世界中で民需が航空技術を牽引しており、ドイツのユンカースJu52、アメリカのダグラスDC-3など、空の歴史を変えた現代的旅客機が誕生。

ようやく「空の旅」が普及しはじめます。

 日本もまた“航空大国・日本”を目指し、航空産業の振興に務めていました。ただ当時の日本は現在ほど豊かな国ではなく、航空機産業はほとんど全てを軍需が支えているのが実情。まだまだ航空機メーカーが独自に旅客機を開発し、商業的に運航できるほどの体力はありませんでした。

 しかし、元来は輸送機や爆撃機など軍用機として開発されながら民需に転換され、定期便の運行を実施した「旅客機」と呼ぶに足る実績を残した航空機も誕生しています。

 戦前の旅客機においてひときわユニークな存在なのが、1939(昭和14)年に初めて運航が開始された「川西四発飛行艇」です。本機は元々「九七式飛行艇」と呼ばれた水上を離着水する海軍機であり、水上機・飛行艇の名門として知られる川西航空機が開発しました。

 この川西四発飛行艇は、国策航空会社「大日本航空」の旅客機として、横浜の根岸を基点に当時は日本の委任統治領であったサイパンまで8時間、そしてサイパン経由でパラオへさらに7時間で結びました。

 運賃はサイパンまで片道235円、パラオまで375円でした。当時、東京~大阪間の超特急「つばめ」3等車が特急料金込みで8円だったことを考えると、庶民にはとても手がだせない高値の花です。しかし、日本機としては最大級の20トンを超える巨体にして、美しく優雅な川西四発飛行艇が横浜の沖合から飛び立つ様は、特に地元の子どもたちにとっては憧れの的だったといいます。

国産飛行艇による旅客機、再び空を飛ぶ可能性

 ただ残念なことに風情ある旅客飛行艇の時代は長くは続かず、1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発と同時に川西四発飛行艇は全機、海軍に接収されてしまいました。

そして、以降も本土と南方を結ぶ輸送飛行艇として運用されましたが、1945(昭和20)年の敗戦に伴い全機が退役します。

 冒頭に記したとおり、この川西四発飛行艇や当時活躍した国産旅客機とYS-11、MRJとのあいだに、技術的な継承はありません。しかし川西航空機は戦後、新明和工業として再設立され、アメリカから飛行艇を導入し技術研究を行い、海上自衛隊向けの国産哨戒飛行艇PS-1を開発。“水上機・飛行艇の名門”としての伝統を復活させました。

 新明和工業では現在、最新鋭のUS-2救難飛行艇を生産中です。US-2は海上自衛隊のみならずインド海軍も導入を決めており、順調に行けば戦後初となる自衛隊機の輸出例となる見込みです。

 また、US-2の派生型として離島をむすぶ旅客飛行艇の計画案も公開されており、実現は厳しいかもしれませんが、そのコンセプト図は日本史上唯一の四発旅客機「川西四発飛行艇」の姿をどこか思い起こさせます。

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