東京駅の丸の内駅舎は左右対称に見えて、実は南側だけ建物が奥へ続いています。これは設計当時、3つの改札口の役割を分けていたことと関係していますが、どのような理由と経緯があったのでしょうか。
東京駅を象徴する赤レンガ造りの丸の内駅舎は、正面から見ると荘厳な左右対称の構造をしていますが、南側だけ、建物が奥へ50mほど続いています。この南北で微妙に異なる駅構造は、100年以上前に設計されたときの「鉄道文化」の痕跡でした。
東京駅丸の内駅舎の南ウイング部(画像:PIXTA)
現在、丸の内駅舎には、正面に中央口(ICカード専用)、左手に北口、右手に南口、合わせて3つの改札口があり、いずれも入出場が可能です。しかし1914(大正3)年の開業当時は、北口が降車専用、南口が乗車専用、中央口が電車(京浜・山手・中央線)ホームのみと接続する電車降車専用と役割が分かれていました。
東京駅開業まで都心のターミナル駅は、1872(明治5)年開業の東海道線新橋駅と、1883(明治16)年開業の東北線上野駅の2つに分かれていました。1888(明治21)年に公布された日本初の都市計画「東京市区改正条例」は、両駅の線路を接続して「中央停車場」を設置し、駅前の「丸の内」をビジネスセンターとして開発する計画を決定しました。
中央停車場を最初に設計したのは、ドイツの鉄道技術者フランツ・バルツァーです。外国人ながら日本建築に造詣の深かった彼は、現代的にアレンジした瓦屋根の城郭建築様式を提案しましたが、西洋文明の導入を急いでいた明治政府はこれに満足せず、設計は「日本近代建築の父」こと辰野金吾に委ねられました。
バルツァー案は中央に皇室専用口、左右に乗車口と降車口を設置し、それぞれを独立した建物としました。小野田滋『高架鉄道と東京駅』によれば、「皇室専用の出入口や貴賓室を駅本屋(駅舎のこと)の中央に設けた例は、欧米のターミナルにもほとんど例が無く、一般的には中央に大広間を設け、貴賓室は中央から外れた場所や別の側面に設けられることが多かった」といいます。
鉄道関係者から一般利用者の利便性に反するという指摘もありましたが、辰野は「我が国の如き国体にあっては、特に之を設くることが必要」として、バルツァーの設計思想に賛同。バルツァー案は皇室専用口、乗車口、降車口を3つの独立した建物にしていましたが、辰野案は3つの乗車口を連続させて両翼にドーム屋根を配置するレイアウトにまとめました。
乗車口と降車口の分離はラッシュ時間帯の混雑緩和に効果があるものの、問題はその距離が200m以上離れていたことです。丸の内周辺の開発が進むと電車利用者が急増しますが、彼らには手荷物預かり所も待合室も必要ありません。皇室専用口の隣、駅中央に電車降車口はあれども、乗車口は南口のみ。北側の大手町方面から乗車する場合、200mも余計に歩かねばなりません。
そこで山手線が環状運転を開始した1925(大正14)年に電車降車口を閉鎖し、電車利用者は乗車口、降車口どちらでも利用できるようになりました。また、1929(昭和4)には東側に電車利用者向けの八重洲口が新設され、東京駅は次第に電車利用に対応した形態へと変化していきます。
丸の内駅舎は戦争で大きな被害を受け、終戦後に規模を縮小して修復されますが、これにあわせて1948(昭和23)年に評判の悪かった乗車口、降車口の区分が廃止されました。また、丸の内の主要ビルがGHQ(連合国軍総司令部)に接収されたため、ビジネスの中心は八重洲側に移り、八重洲口の利用者は急増します。
1948年に完成した八重洲口新駅舎は半年で焼失してしまいますが、1954(昭和29)年に近代的なターミナルビル「鉄道会館ビル」が完成すると、駅機能の中心は八重洲側に移っていきます。やがて丸の内側の「乗車口」「中央口」「降車口」という名称が分かりにくいという声が上がり、国鉄は1959(昭和34)年10月にそれぞれ「丸の内南口」「丸の内口」「丸の内北口」に改称しました。
南口が乗車口だったことを示す痕跡が、南側のみ50mほど張り出した「南ウイング部」です。駅は出札(きっぷ売り場)、手荷物預かり所、待合室、食堂・売店など乗車前に使用する設備が多いため、乗車口付近のスペースを大きく取り、等級別の待合室やトイレ、食堂・売店などを設置していたのです。
前掲『高架鉄道と東京駅』は、「大きな駅で乗降口の導線を完全に分離したレイアウトは、いまなお中国の鉄道駅などで根強く用いられており、各国の鉄道文化の違いを示す慣習のひとつとなっている」と指摘します。丸の内駅舎の利用形態の変化もまた、日本の鉄道文化の変化を象徴していると言えるのでしょう。