バブル絶頂期に販売された乗用車「アプローズ」は、実用性に優れ、完成度こそ高かったものの設計ミスから車両火災を起こし、大手新聞が叩いたことから命運を絶たれました。「ダイハツ渾身の力作」のあまりに気の毒な末路を振り返ります。
バブル絶頂期の1989年にダイハツが世に送り出した「アプローズ」は、時代に逆らうようにシンプルでクリーンな実用車でした。ただ、完成度こそ高かったものの、デビュー間もない時期に設計ミスから車両火災を起こし、それを大手新聞が叩いたことで命運を絶たれました。ダイハツ渾身の力作の、あまりに気の毒な末路を振り返ってみましょう。
1990年5月に登場したダイハツ「アプローズ」の特別仕様車「QR-90」。日本初となる周波数感応式ショックアブソーバーが奢られたモデルだ。「(画像:ダイハツ)。
そもそもダイハツは、現存する国内の自動車メーカーでは最古の歴史を持っています。歩み出しは発動機製造会社でしたが、1930年にエンジンまで国産化したオート三輪「HA型ダイハツ号」を発売し、エンジンメーカーから自動車メーカーへと脱皮。太平洋戦争後の1951年に現在の社名であるダイハツ工業へと改名し、1963年には同社初の四輪乗用車「コンパーノ」を発売します。
ただ、1960年代の自動車業界再編の波に乗って1967年にトヨタグループと提携関係を結ぶと、徐々にトヨタの子会社としての色彩を強め、1980年代以降は軽自動車の分野で存在感を示すようになりました。
しかし、ダイハツは小型車の開発を諦めたわけではなく、トヨタ「パブリカ」ベースの「コンソルテ」や、「カローラ」ベースの「シャルマン」を製造しながら、小型乗用車を自社開発するチャンスを伺っていました。
果たせるかな、1977年にダイハツが独自開発した「シャレード」は、当時の国産車で唯一のリッターカーであり、振動の問題から国内自動車メーカーが敬遠してきた4ストローク直列3気筒エンジンを搭載。
そのようなダイハツが「シャレード」よりも1クラス上の市場を狙って開発したのが、1989年7月に登場した「アプローズ」です。英語で「喝采」という意味を持つこのクルマは、日本中が好景気に浮かれていたバブル期のデビューにもかかわらず、真面目で実直なダイハツらしくボディサイズは5ナンバー枠をキープしながら、ダイハツの持てる当時の技術を惜しみなく注ぎ込んだ渾身の力作でした。
ダイハツのフラッグシップカーとして持てる技術を全注入心臓部のHD型1.6リッター直列4気筒SOHC16バルブエンジンは、このクルマのために新開発したパワーユニットで、中空化されたカムシャフトやクランクシャフト、アルミ製シリンダーブロックなどの軽量化技術が惜しみなく投入されていました。

ダイハツ初の市販乗用車「コンパーノ」。写真はセダンボディの「コンパーノ・ベルリーナ」。スタイリングはイタリアのカロッツェリア・ヴィニャーレが担当した(画像:ダイハツ)
組み合わされるギアボックスは5速MTと4速ATから選べ、駆動方式はFF(フロントエンジン前輪駆動)を基本としながらも、雪国のユーザーのためにビスカスLSD付きのセンターデフ方式フルタイム4WDも用意されました。
サスペンションは、フロントがマクファーソンストラット、リヤがパラレルリンクおよびトレーリングリンクとストラットによる4輪独立懸架式を採用。一部グレード(1990年5月に追加された「QR-90」など)には日本初となる周波数感応式ショックアブソーバーが付与され、高い操縦安定性と乗り心地を両立させていました。
このクルマの最大の特徴であり、ユニークな試みであったのは、「スーパーリッド」と名付けられたリアガラスとトランクが一体化したハッチゲートの採用にあります。つまり、このクルマは4ドアセダンではなく、5ドアハッチバック車だったのです。この独特な設計は大きな荷物を積み下ろしする際に大変重宝しました。
スタイリングはてらいのないシンプルなものながら、どことなくフランス車を思わせる上品かつクリーンな美しいものでした。ダイハツは「アプローズ」を開発するにあたってフラッシュサーフェイス化を徹底しており、Cd値は0.33と当時のセダンとしてはなかなかの性能で、優れた空力性能の恩恵で、風切音の少なさも長所のひとつとして挙げられます。
これほどの力作でありながら、「アプローズ」の販売価格(デビュー時)は108~139万5000円と比較的安価に設定されており、その点はまさしく「ダイハツの良心」と言えるでしょう。
「喝采」ならぬ「火災」が引き金に 大手紙のネガキャンで命運絶たれたしかし「アプローズ」の属するコンパクトセダン市場には、「カローラ」や「サニー」のような競合がひしめくレッドオーシャンです。大手メーカーのように宣伝費をかけられないダイハツは、マスコミや購入者の「良いクルマ」という評判を頼りに、長い時間をかけてじわじわと販売を上向かせていく腹積もりだった模様です。ただ、ダイハツのそのような思いは、結局叶うことはありませんでした。

1989年のデビュー間もない時期のダイハツ「アプローズ」(画像:ダイハツ)。
最初のつまずきは発売直後のATとオルタネーターのリコールです。もちろん、ダイハツはすぐさま運輸省(現・国土交通省)に届けて真摯に対応したのですが、折悪くその日は第28回東京モーターショーの一般公開の初日で、マスコミ取材に対し、自動車工業振興会会長が出品自粛を要請するようなコメントをしたことが、テレビや新聞で報じられてしまいます。
さらに翌月には、燃料タンクの空気抜きの設計ミスから、立て続けに2件も火災事故が発生。全国紙のうちの一紙がネガティブキャンペーンを張り、執拗に「欠陥車」とあげつらったことで「アプローズ」の命運は完全に絶たれました。
たしかに設計ミスによる車両火災はダイハツの落ち度です。
しかし、残念ながらダイハツの宣伝広告費は少なく、この新聞社の懐を満足させてくれるようなクライアントではなかったのです。
結局、出鼻をくじかれたことで「アプローズ」の販売は低迷。ラインナップを維持することを考えれば生産中止にすることもできず、かといってモデルチェンジをする資金もありません。そこでダイハツは少しでも開発費を回収するべく、一部改良やマイナーチェンジを繰り返しながら「アプローズ」を長期にわたって細々と売り続ける道を選択しました。
後継車の「アルティス」(トヨタ「カムリ」のOEM車)が登場したのは2000年3月なので、「アプローズ」それまで11年にわたって販売が継続されました。このクルマの完成度は高く、傑作と言って良いほどの出来だったので、現在も「アプローズ」を評価している筆者(山崎 龍:乗り物系ライター)としては「あの車両火災がなかったら…」と思うと本当に残念でなりません。