日産の顔のひとつともいえるスボーツカー「フェアレディZ」ですが、考えてみれば不思議な名前です。「淑女」はなぜコワモテな「Z」の文字をともなうのでしょうか。
日産の誇るスポーツカーといえば「GT-R」でしょう。しかし、実際に販売された数は「フェアレディZ」が圧倒的に上回ります。そういう意味でも、「フェアレディZ」は日産を代表するスポーツカーのひとつと言うのは間違いないことでしょう。
しかしこの「フェアレディZ」という名前、少し不思議に思わないでしょうか。優雅なイメージの「フェアレディ」と、コワモテな「Z」。相反するふたつのイメージで構成されています。
初代「フェアレディZ」の、DOHCエンジンを搭載したZ432モデル(画像:日産自動車)。
その理由は、「フェアレディZ」の歴史にあります。
実は「フェアレディZ」には、ルーツとなるモデルが存在しています。それが1960(昭和35)年に発表された「フェアレディ(初期はフェアレデー)」です。スパルタンなスポーツカーではなく、華やかなイメージのオープンカーで、北米での日産ブランドであるダットサンの1モデルとして誕生しました。名前の由来は、当時アメリカで上演されていたミュージカル『マイ・フェア・レディ』です。
1960年代の日本は、「日本グランプリ」が開催されるなどスポーツカーへの注目度が高まった時代。それにあわせるかのように「フェアレディ」も、どんどんスポーツ色が強まっていきます。

1965年に発売されたダットサン「フェアレディ 1600」。モデルチェンジ後の2代目世代で、初代に比べ、すでにややスポーティなシルエット(画像:日産自動車)。
そして後継モデルとして、1969(昭和44)年に「フェアレディZ」が登場しました。
ちなみに、「Z」はアルファベット最後の文字であり、「究極」を意味しています。また、「フェアレディZ」の開発陣としては、「絶対に負けられない戦い」という意味もあったのです。
「フェアレディZ」開発の企画を提案したのは、当時アメリカ日産の社長であった片山豊氏です。アメリカ向けの、安価で高性能なスポーツカーを開発してほしいというのが、「フェアレディZ」の始まりでした。

71年のマイナーチェンジモデル、240Z(画像:日産自動車)。
一方で、当時の日本の日産経営陣は「儲からないスポーツカーは力を入れない」という方針。正直、スポーツカー開発はアウトサイダー的な扱いであったそうです。
「Z旗」と言われてすぐにピンとくる人は、相当な歴史ファンと言っていいでしょう。Z旗は、日本の海軍にとって特別な旗です。
日露戦争中の1905(明治38)年に行われた「日本海海戦」において、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」と掲げられたのがZ旗でした。いまふうに言えば「絶対に負けられない戦い」です。当時、世界最強の一角を占めていたロシアの艦隊に対して、弱小国であった日本の艦隊が立ち向かい、そして一方的な大勝利をおさめたのが日本海海戦でした。それ以来、日本海軍は勝負のときにZ旗を掲げるようになりました。

三笠公園(神奈川県横須賀市)の戦艦三笠に掲揚されたZ旗(画像:photolibrary)。
片山氏はその故事にのっとり、日産本社で冷遇されていたスポーツカー開発陣にZ旗のメッセージを届けたというわけです。
そうして生まれた「フェアレディZ」は大ヒットモデルとなります。初代モデル(S30)は、1978(昭和53)年の生産終了まで50万台以上も売れました。
日産の人気を支える「フェアレディZ」誕生には、開発者の強い思いがあったのです。