日本製の潜水艦や航空機など防衛装備品が、外国に対しまったく売れていません。これまでの消極策のツケが回ってきたという見方もできそうです。
2019年5月12日、日本経済新聞が報じた、とある記事がにわかに注目を集めました。この記事は日本の防衛装備品の輸出の現状について報じたもので、これまでオーストラリアやイギリスといった他国とのあいだで10件近くの輸出交渉が行われたにもかかわらず、2019年5月現在までに決定した装備品の輸出件数がなんと0件だったという内容です。
そもそも「防衛装備の輸出」とはどのようなもので、なぜ輸出交渉が相次いで不調に終わってしまったのでしょうか。
海上自衛隊の「そうりゅう」型潜水艦。オーストラリアへの輸出が期待されたが、かなわなかった(画像:海上自衛隊)。
「防衛装備品の輸出」は、もう少し一般的な用語に言い換えるならば、「武器(技術)輸出」という言葉になりますが、日本政府は戦後、長らくこの武器輸出に対して平和主義の観点から消極的な姿勢をとり続けてきました。1967(昭和42)年に当時の佐藤栄作首相が国会で答弁した、いわゆる「武器輸出三原則」は、(1)共産圏諸国向けの場合(2)国連決議により武器などの輸出が禁止されている国向けの場合(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合には、日本が武器を輸出できないとする内容でした。
しかし、その後の1976(昭和51)年に、当時の三木武夫首相が示した「武器輸出に関する政府統一見解」では、上記の三原則に該当しない国々に対しても、武器輸出を「慎む」ことが明言され、日本は原則として武器輸出が禁じられてしまいます。
方針転換は80年代、アメリカとの「例外」取り引きからしかし、国際情勢や安全保障環境の変化が、この武器輸出を「慎む」原則を徐々に緩和させていくこととなります。
まずは1983(昭和58)年、当時の中曾根康弘首相が、アメリカが示した防衛分野における技術の相互交流の要請を受け入れ、「対米武器技術供与」を武器輸出三原則の例外と位置付けて、これを認める方針を決定しました。続いて、1990年代に入って顕在化した北朝鮮による弾道ミサイルの脅威に対応するため、日本政府は2004(平成16)年に、弾道ミサイル防衛に関する装備品の日米共同開発を、同じく武器輸出三原則の例外と位置付け、これを認めました。
こうした武器輸出に関する緩和の流れをくむ形で2014(平成26)年に閣議決定されたのが、「防衛装備移転三原則」です。これは、(1)防衛装備の移転を禁止する場合の明確化(2)移転を認め得る場合の限定並びに厳格審査及び情報公開(3)目的外使用及び第三国移転に係る適正管理の確保、の三原則からなるもので、その内容を分かりやすくまとめると、紛争中の国や日本との条約や国連安保理決議を遵守しない国々には装備移転を認めず、それ以外の場合には国際協力や日本の安全保障に資する場合に装備移転を認め、これらの条件を満たして装備移転をする際にはその移転先の管理体制などを確認する、というものです。
武器輸出の意義と日本が不調のワケこのように、日本が武器輸出を徐々に解禁していった背景には、国際社会の変化のみならず、武器輸出が日本にもたらす意義やメリットも大きく関係しています。
たとえば、防衛産業に携わる国内企業が自衛隊からのみ装備品の受注を受ける場合、その受注規模は当然小規模かつ少額で、単価も高止まりしてしまいます。海外に武器を輸出することで受注規模が拡大すれば、産業基盤や技術の維持発展、さらに武器の単価引き下げの効果が期待できます。
また他国に武器を輸出すれば、その国と日本が共通の装備品を保有することになり、平時から有事にかけて共同作戦を実施する場合の連携がスムーズに行えるようになります。そしてなにより、その国や地域における日本の影響力が大きくなることによって、外交や安全保障上のつながりがより一層強化されることになります。

海上自衛隊の救難機「US-2」は2019年5月現在、インドと輸出交渉中(画像:海上自衛隊)。
しかし先述したように、実際のところ日本の武器輸出は、いまだに主要な成果を得ることができていません。これにはさまざまな理由が考えられますが、なかでも大きなものとして、日本にはこれまで大きな武器輸出の経験がなく、国内における装備品生産ラインの規模や部品供給、整備面での不安があることや、輸出先国の現地における運用に応えられるようなローカライズに関する不満、さらには装備品自体の単価が高額である点などが考えられます。
しかし、だからといって日本はこの分野から手を引くべきだという発想は、少々短絡的といえます。

海上自衛隊の練習機TC-90は、防衛装備移転三原則に基づきフィリピン海軍に無償供与され(法整備の関係で当初は貸与)、2019年現在、同国で洋上監視の任務に就いている(画像:海上自衛隊)。