京急本線の横浜~戸部間に存在した平沼駅は、駅廃止後、横浜大空襲により被災。その後長らく屋根の骨組みなどが残っていましたが、老朽化により撤去されてしまいました。
元号が令和に変わり、昭和の時代はますます遠くなろうとしています。鉄道における昭和の遺構といえば、廃線や廃駅の跡など様々なものがありますが、昭和は戦争の時代でもありました。
旧平沼駅の階段(2019年4月、河嶌太郎撮影)。
首都圏における身近な鉄道の戦争遺跡のひとつに、京浜電気鉄道(駅廃止時は東急電鉄、現在の京急電鉄)の旧平沼駅(横浜市西区)があります。平沼駅は、京急線が横浜駅まで乗り入れた翌年の1931(昭和6)年12月に開業。しかし太平洋戦争中の1943(昭和18)年6月に営業を休止し、戦争が激化した翌1944(昭和19)年11月に廃止されてしまいます。わずか13年という短い期間でした。廃止の理由について京急電鉄は、「戦時体制の中で比較的不要な駅を廃止したのではないか」とみています。
そんな旧平沼駅に転機が訪れるのは、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲です。東京大空襲を超える数の米軍のB-29爆撃機517機が横浜市中心部に飛来し、43万8576発の焼夷(しょうい)弾を投下した無差別爆撃で、当時の横浜市人口の3分の1にあたる31万人が被災しました。死者数は直後の神奈川県の記録では3649人とされていますが、その後の調べでは、8000人とも1万人ともいわれています。
当時から京急線の旧平沼駅周辺は高架となっており、空襲時にはこの高架下に多くの人が逃げ込んだものの、火災や熱風で逃げ場を失い多くの人が亡くなったといいます。駅舎跡も焼夷弾によって壊滅的な被害が生じました。この時の火災や熱風による焦げ跡が戦後も残され、旧平沼駅は横浜大空襲の戦争遺跡として見られるようになります。

平沼一丁目交差点から旧平沼駅方面を俯瞰。周囲にはオフィスビルやマンションが林立する(2019年4月、河嶌太郎撮影)。
戦後、旧平沼駅は駅として復活することはありませんでしたが、駅舎跡の鉄の骨組みは高架上に残ったままとなりました。架線柱の代用にしていたという実用面の事情もありましたが、戦禍を後世に伝える意図もあったといいます。
しかしその戦争遺跡としての役割を果たしていた旧平沼駅にも、老朽化の波が押し寄せます。終戦から54年経った1999(平成11)年、老朽化が進み骨組みが崩れる危険性が出てきたため、この鉄骨は撤去されてしまいます。それからさらに6年後の2005(平成17)年ごろから、耐震補強のため改修工事が進み、現在では残されたホーム跡も保線用の資材置き場となっています。
現在の平沼駅跡は…現在の様子はどうなっているのでしょうか。横浜駅東口から南に600mほど歩いた平沼一丁目交差点のそばに、平沼駅の跡はあります。

平沼商店街から旧平沼駅を見る。旧駅周辺は横浜駅から徒歩圏内で、人通りそのものは多い(2019年4月、河嶌太郎撮影)。

耐震化が進んだ高架柱の隣に年季の入った柱が並ぶ(2019年4月、河嶌太郎撮影)。

仮囲いの上を注意して見ると、随所に戦災の様子がうかがえる(2019年4月、河嶌太郎撮影)。
かつて平沼駅の改札があったとされる所には、平沼商店街が交差しています。商店街と言っても様々な商店が建ち並んでいる様子はなく、飲食店くらいしか見当たりません。その代わりに雑居ビルや、事務所が入居しているようなオートロック式マンションが入り交じっています。空襲当時97万人だった横浜市の人口も、いまや374万人。
このように、いま旧平沼駅の面影に触れようとしても、高架下は徹底して囲いがされてしまっています。ここが旧平沼駅だと事前に調べて訪れない限り、ここに何があったのかを直接知る手掛かりはないでしょう。もちろん老朽化や改修工事など、安全面のため致し方ない部分はあります。とはいえ、せめて往年の平沼駅の様子やいきさつを伝える由来書ひとつでもあれば伝えられるものがあるのに、とは思いました。仮囲いを透明なものに変え、中を見えるようにするだけでも後世に遺せるものがあるかもしれません。
2019年5月29日で、横浜大空襲から74年を迎えました。平成から令和の時代へと移り、ますます遠くなる昭和の記憶をどう受け継いでいくのか。平沼駅跡を訪れ、改めて考える必要があるのではないかと感じました。