かつて「弾丸列車」と呼ばれた、東京~下関間を結ぶ高速鉄道の計画がありました。戦時中に中止されて幻に終わったものの、在来線の改良と私鉄の延伸計画に影響を与えながら戦後の東海道新幹線の布石に。
1964(昭和39)年10月1日、世界初の本格的な高速鉄道といえる東海道新幹線が開業。最高速度210km/hで東京~新大阪間を4時間で結び、戦後の日本経済をけん引しました。いまでは最高速度が285km/hに向上し、所要時間も最短2時間22分に短縮されています。
戦前の「弾丸列車」計画により着工した東海道新幹線の新丹那トンネル(2019年8月7日、草町義和撮影)。
しかし、戦前の1930年代にも、朝鮮半島や中国大陸への玄関口になっていた本州西端の下関と東京を結ぶ、最高速度200km/hの高速鉄道が計画されました。日本から大陸に向かう旅客や貨物が増え続け、在来線(東海道・山陽本線)の輸送力がひっ迫していたためです。この計画を当時の国鉄は「新幹線」などと呼んでいましたが、一般には「弾丸のように速い」という意味で「弾丸列車」と呼ばれていました。
工事は太平洋戦争の戦局悪化で1943(昭和18)年度限りで中止されたものの、いまも工事の名残が各地に点在しています。終戦の日を一週間後に控えた2019年8月7日(水)、弾丸列車の旧計画ルートのうち、東海道区間の工事の名残を訪ねてみました。
まずは東海道新幹線と伊東線を乗り継いで、熱海駅のひとつ隣にある来宮駅(静岡県熱海市)へ。この駅のすぐ近くに東海道新幹線の新丹那トンネルがあります。

函南駅の南外れにある住宅地の地名は「新幹線」。かつて弾丸列車の工事宿舎があった。


熱海駅に戻って東海道本線の普通列車に乗り、在来線の丹那トンネルをくぐった先にある函南駅(静岡県函南町)へ。汗をだらだらかきながら南西へ約1.4km歩いて行くと、山あいの住宅街のなかに「新幹線公民館」と記された看板を掲出した建物が。近くにあるバス停も「幹線上」「幹線下」を名乗っていました。
この一帯はかつて、弾丸列車用として着工した新丹那トンネルの工事宿舎が置かれていた場所。いまは住宅街に変わりましたが、工事宿舎があったことにちなんで「新幹線」という地名が付けられたのです。
沼津の道路と東海道新幹線のトンネル次は東海道本線と御殿場線が合流する沼津駅(静岡県沼津市)。この駅の北側には、東西と南北に延びる道路で区切られた碁盤目状の市街地が広がっていますが、そのなかになぜか「東西南北の碁盤目」に逆らうようにして、北東から南西へ斜めに延びる道路が。この道路は、弾丸列車用の線路の旧予定地を活用したものといわれています。

沼津駅の北外れにある道路は弾丸列車の建設用地だったといわれている(2019年8月7日、草町義和撮影)。
東海道新幹線のルートは弾丸列車の旧予定ルートとほぼ同じですが、一部の区間は弾丸列車のルートから外れた場所に建設されました。たとえば、弾丸列車は現在の三島駅からいったん南西に進んで海岸沿いを進む計画でしたが、東海道新幹線は三島駅からほぼ真西へ進んでいます。このため、三島駅から南西に進む部分の建設用地が東海道新幹線では使われず、道路に生まれ変わったのです。
最後は東海道新幹線の静岡~掛川間にある日本坂トンネルへ。このトンネルも弾丸列車計画の一環として着工しましたが、工事は計画の中止後も進められて1944(昭和19)年に完成。弾丸列車の代わりに、東海道本線 用宗~焼津間の線路が日本坂トンネルに移設されました。
当時の東海道本線はカーブが多く勾配もきつかった海沿いを走っていましたが、直線で勾配が緩い日本坂トンネルに移設したことで、軍事輸送の一翼を担う貨物列車の輸送力を強化したのです。このトンネルの静岡寄りの出入口を訪ねると、東海道本線とトンネルを結んでいた線路の跡地に、東海道本線の歴史を解説する案内板が設置されていました。

東海道新幹線の日本坂トンネル。


東海道本線と日本坂トンネルをつないでいた線路の跡地に設置されていた案内板。
戦後もしばらくは東海道本線が日本坂トンネルを使用。
弾丸列車の名残は、ほかにもいくつかあります。たとえば兵庫県の加古川バイパスは、弾丸列車用として確保されて返還された土地を再買収して建設されました。